top of page

一人旅 Ⅱ

2 時間前
読了時間: 6分

                                                            2026.11.2(月)


2泊3日の一人旅。


2日目の今日は朝から夜までまるっと1日使えます。


嬉しすぎて、叫びたくなるような気分でした。


私のためだけの1日。

もっというなら、私のために・・・すら、ない私!

でいられるなんて最高🩵


私の好きなアーティストのある歌の歌詞・・・


♪ただ楽しむのが君の仕事さ〜♪


を車中で大声で歌いながら、山形の田んぼを左右に眺めながら車を走らせてました。




「上杉鷹山を感じたい、の旅」の2日目は、「普門院」からスタート。


そこは米沢藩の建て直しのために、細井平洲という学者を江戸から招き、鷹山が丁重にお迎えした場所であり、再会を果たした場所でもあります。


細井平洲という学者は、尾張国(今の愛知県西半部)の生まれで、


少年の頃から京都で勉学し、その期間は極度に生活を切り詰め、一汁一菜で通し、父親からの学費はほとんど本に使ったらしく・・・


故郷に帰る時は、ぼろぼろの着物で、体も垢まみれ、まるで乞食のようだったそうです。


馬を一頭引いていて、馬の背には、今まで読んだ本が、馬が降参するほど沢山くくりつけられていたそうです。


24歳の時に江戸に出て、学塾を開き生徒はすぐ増えたそうです。一応は朱子学を主にした塾のようですが、幅広い応用性を大事にし、


「学問と今日(現実)とが別の道にならないようにすべきだ」というのが口癖だったそうです。


上杉鷹山が14歳の時、細井平洲と出会い、その時から師と仰ぎます。


平洲は、徹底して「政治の基は道義であります」と言っていました。


上杉鷹山は、その歳にはすでに上杉家の藩主になることが決まっていたので、平洲は藩主教育を鷹山に施していたそうです。


「政治を行うものは、まず徳を養わなければならない」という態度は、子どもの頃から平洲の教えが染み付いていたことからきているようです。


14歳で師匠と出会い、17歳にはすでに上杉家の養子となり米沢藩の藩主になっています。

ということは平洲先生のもとで学問を受けていたのは、たったの3年ほどだということがわかります。


「藩主」という栄えある地位に就いた・・という輝かしい出発などではなく、借金まみれの米沢藩の藩主にさせられた・・・というのが本当のところかと思います。


普門院の入り口にある細井平洲と上杉鷹山の像
普門院の入り口にある細井平洲と上杉鷹山の像

普門院の入り口にある二人の像の前に立ち、この再会を果たした時、どんな気持ちだっただろう・・・と想像しました。


上杉鷹山は、派手な暮らしをやめられない堕落した武士たちの心を変える意識改革から着手しました。


他所からきて、しかも17歳の若さで藩主となった鷹山は、年の多い経験豊富な武士たちからの激しい批判や非難の的となります。


それに耐えながら、ただただ細井平洲の教えや精神を胸に秘め、改革を進めてきた鷹山。


一方、師匠である細井平洲は、自分の教えを、机の上でなく現実の厳しさの中で具現化していった鷹山を、どのような思いで見守ってきたのか。


そんな思いを巡らす時間がしばらく流れていました。


ふと普門院入り口近くの風景を眺めていたら、一軒の家がありました。

看板には、「普門院の鍵を開けて案内します。」的なことが書いありました。


朝早い時間だったので迷いましたが、恐る恐るインターフォンを鳴らすと、「ちょっとお待ちください」という声がして、5、60代ぐらいのエプロンを着た女性が玄関先に出てきてくれました。


「あの・・・普門院の中を見てみたいのですが・・・」と私がいうと、


「そうですか。ご案内しましょうか。」山形弁らしきイントネーションで、そう言って鍵を取りにもう一度家の中に入り、しばらくしてから出てきてくれました。



普門院を外側から撮影
普門院を外側から撮影

その人の案内で、普門院の中に入らせていただきました。


普門院というのは元々古くからのお寺で、案内してくれた女性は、この寺の代々の住職の奥様だということがわかりました。


その人は、まるで鷹山と平洲先生の再会の場に、あたかも居合わせていたかのように、詳細にその日の様子を教えてくださいました。





「この廊下を歩いて、ここのお部屋に入って、このように座られたそうです・・・その時差し出した食べ物やお茶にこの器が使われたそうです・・・。」など生き生きと語ってくださいました。


きっと立派な器をいろいろなところから調達して、師匠を最高のおもてなしでお迎えしようとしたのかもしれないと想像しました。


📖現在残っている「興譲館の図」によると、(鷹山が建てた学び舎)正面奥に聖堂があり、左斜め手前に講堂、右手に文庫があって、二階建ての建物もあり、教授場、総監室などがあった。


よく工夫された、いたれり尽せりの学校であった。


正規学生は二十人だったが、必ずしも若者ばかりではなく、才学があれば、中高年も入れた。学生生活は自治を重んじ、自分たちの中からリーダーを選ばせて、藩は口を出さなかった。選ばれたリーダーに、藩は月謝を免除し、逆に手当と食糧を給付した。


学生への講義のほか、教授たちは月六回、講堂で「講談の会」を開いた。


これは藩士だけではなく、一般の農庶民にも開放した。公開講座である。


「藩士も庶民もいっしょに学べる学校」は嘘ではなかった。📖(童門冬二著の上杉鷹山から抜粋) 


借金まみれの藩の財政を立て直すだけでも難しいことだが、ただ節約だけをしたのではなく未来の豊かな米沢藩のために、教育に力を入れて、そこにはお金を十分回したところに鷹山の人間性と先見の明を感じました。

現代風にいえば、先行投資をしていたわけですね。


何より、一人旅に出た醍醐味として、この普門院で山形弁の「人の案内」でゆっくり案内されたことをとても嬉しく思いました。


次の聖地に向かう途中、米沢道の駅が遠くに見えました。


早い時間にも関わらず、たくさんの車と人が活発に出入りしていました。


思わず車を走らせ、そこに立ち寄り、野菜や果物を買いました。


無計画で家を飛び出しましたが、ちゃっかりクーラーボックスだけは車のトランクに入れてきて正解!🤭(おばさんあるある)



山形県の果物はものすごく美味しいよ、と以前山形県に住んでいた人から聞いたことがありましたが、それは本当でした。


どの果物も瑞々しくて味が濃いのです。


いろいろな果物を交配させ開発した、山形ならではの果物もたくさんあり、ここにも鷹山の新しい産業を興した「為せば成る 為さねば成らぬ 何ごとも」の精神が宿っている気がしました。


そういえば、私の親戚が、山形県に出張したことがありました。


その際にも、山形の人の中に、既成概念にとらわれず新しいものをつくるぞ!という気概が感じられた・・・と言っていたことがありました。


一人の偉大な人物の精神というものは、その土地に住む人々の心に、香りのように移っていくものだと感じました。


一人旅は、思わぬ景色や、その土地の生活に触れる機会にふと出会えると思いました。

 
 
 

コメント


bottom of page