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第1回 幸福に生きるとは

2023.1.26(木)

心理カウンセラー 萩原法代

はじめに

私は人生の半ばでやっと自分のやりたい仕事を見つけることができました。
それは心理カウンセラーという仕事です。

2017年に産業カウンセラーの資格を取得し自宅で心理カウンセリングを始めました。
名刺を作り友人知人に配りながら告知と呼びかけをし、半年間は無料の心理カウンセリングを続けていきました。

 

2021年には時代の流れもあり、SNSカウンセラーの資格を取得しました。
2022年4月に貸事務所にカウンセリングルーム「アディムクティ」を開所し、その後ホームページを制作していただき7月に公開しました。
今までは、友人知人の繋がりで広がっていきましたが、ホームページを開設してからは、今まで繋がりがなかった人たちが、ホームページから入ってきて予約申し込みをしてくださるようになりました。

 

2022年1月、市内に住む加害者更生で全国でも第一人者であるカウンセラーさんと繋がることができ、ワークショップの講師として迎え、同年7月から、気づきの多い講座を毎月開催しています。
そのカウンセラーさんには、私のスーパーバイザーにもなっていただきアドバイスを受けています。
この方に勧められた「ゲシュタルト療法」が、自分の感覚や考え方とよく合うものということがわかり、この分野のセラピストの情報もいただき、その方と繋がり学ぶ機会を得ることもできました。
今もその学びを続けています。

 

前置きが長くなってしまいました。
年齢は多い方ですが、カウンセラーとしては駆け出しのようなものです。
そんな私が提言を発信するとはいささか僭越であることは承知しています。

 

しかし、カウンセラーとしてほんのわずかではありますが、時代の風を感じることがあり、この立場から社会に提案をしたいことが生じてきました。
また、現実の社会の中で、こんな時にカウンセラーがいたら、またはカウンセリングマインドで接する人がそばにいてくれたらいいのに・・・、と感じることも発信したくなりました。
もっと経験を重ねて力をつけてから発信することも考えましたが、自分の年齢を考えました。一定の力がついた、と、いつ思えるか想像がつきませんし、その頃には思ったことや考えたことを文章にまとめて表現することができるのかわかりません。
そこで、今現在の未熟な私のまま、そして1年間カウンセラーとしてカウンセリングやワークショップを通じて人々と交流する中で、地域社会に向けて提案したいことをまとめて毎年1月26日に発信することを決意しました。提言の名称は「幸福提言」といたしました。

幸福に生きるとは

ところでカウンセリングの目的とは一体何なのでしょう。


私の考えの結論から言ってしまうならば、それは「目の前の人の幸福」だと思っています。
幸福だなんて・・と大袈裟に感じる方もいらっしゃるでしょう。しかしただお話を聴かせていただくだけでもなく、学んだ心理学を活用してその人の何かを変えようとしたり、意味もなく心理分析をしたりすることでもないことはご理解してください。
目の前の人が今どんなことで悩んでいて、どんな思いでいるのか、そしてこれからどうして生きていきたいのか、生きていったらよいのか・・・その悩みと願望に寄り添いながら、解決の糸口を探っていくことは、究極は目の前の人が幸せに生きることを目指して、対話を重ねているということになると思うのです。


優れた理論や分析はたくさんありますし、心理学も日進月歩で、新しいものが日本でも外国でも、きっと今日も産声をあげていることでしょう。しかしそれらが教科書ではなく、教科書は目の前のその人自身であり、答えもその人の中にあります。その人の外にあるもの(理論や分析)は、その人の幸福のために用いるものであって、その理論に目の前の人を当てはめる、ということでは本末転倒になってしまうと思います。


さて、そこから一歩深く掘り下げていきます。


では、幸福な人生を歩む・・・というのはどういうことなのでしょう。
これには人それぞれの違いがありますし、それぞれの価値観がある中でこの問いの答えを見出すことは難しいことかもしれません。


「ダイバーシティー」という言葉が多く聞かれるようになりました。「多様性」という意味です。私が最初にこの言葉に触れたのは、カウンセラー養成講座で活用していた教科書の中で目にしたときでした。2016年だったと思います。さらに同じ頃、都知事の記者会見をテレビで観ているときに、小池都知事の口から頻繁に出ているワードとして印象的でした。「多様性」と書いてあるものを読んだり聞いたりしていたのでは気に留めなかった私も「ダイバーシティー」と聞いて、その言葉ってどんな意味?と立ち止まることになりました。


価値観にも多様性があります。何に価値を置いて生きていくのか、人それぞれ違います。


少々飛躍しますが、Z世代の価値観を追ってみたいと思います。


Z世代という言葉の発祥はアメリカだそうです。
1960年代から70年代に生まれた人を指す言葉として「ジェネレーションX」という言葉がありました。これはカナダ人作家ダグラス・クープランド著の「ジェネレーションX」という著作から来ているそうです。


アルファベット順でXの次に来るのがジェネレーションY(Y世代)で、1980年代から1995年までに生まれた世代を指し、Y世代の次をジェネレーションZ(Z世代)といい、1996年〜2009年までに生まれた世代を指しているそうです。
ちなみに、2009年以降に生まれている世代をα世代というそうです。アルファベットのZが最後になるので次がありませんから、ギリシャ文字の1番最初にくるαが用いられるそうです。(ダグラス・クープランド氏がここにいたら何と言うでしょうか。こんな展開になることを予測していなかったでしょう。)


Z世代の価値観について、に話は戻ります。


X世代が第二次世界大戦後に起こったベビーブームの次の世代ということで、個人主義的な考え方や独立心が強く転職に対しても肯定的なのに対し、Z世代が育った時代は不安定であったため安定志向が強く、一つの会社で長く働きたいと望んでいる傾向があるようです。


スマフォネイティブ・SNSネイティブであり、逆にテレビや新聞をあまりみない世代でもあります。自分に必要のない情報にお金を支払ってまで得ようとは思わない、という価値観も反映されているかも知れません。


また不況が続く時代を生きてきたために、夢や理想に生きると言うより、現実をよく見据えたリアリストであるケースが多いと言えます。


仕事とプライベートを分けたいというワークライフバランスも重視している世代と言えます。
オンラインでの活動や購入に慣れているため、インターネットを介した詐欺や偽物の出品などインターネット上に存在するリスクへの警戒心が他の世代よりも強い傾向にあります。


コミュニケーションは柔らかいものを好んでいるようです。相手の考えが自分の考えと違うことは当然として、差異をすんなり受け入れることができる世代だそうです。


Z世代だけを抽出してざっと特徴を追ってみても、戦後の高度経済成長、インターネットの普及、環境問題、異常気象やパンデミック、少子化などの変化を受けて、ライフワーク、働き方、生きがい、価値観、コミュニケーションのあり方が、この50年で大きく変化していることがわかります。


これだけ変化している価値観の違いがあれば「幸せな生き方とは?」を100人に問いかけたら、100通りの答えが返ってくることでしょう。


ところが、ここで私がカウンセラーとして、声を大にして言いたいことは何かと言いますと、「どんなことに幸せを感じるのか」に多様性があったとしても、「悩み」にあまり世代の違いからくるものを感じないということです。
どうしてこれほどまでに時代が変化し10年毎の世代の特徴がはっきり違うのに、人が抱える「悩み」に世代の違いがないのでしょうか、この疑問が最近までずっとありました。


人間そのものが変わらないからだ、と自分を説得するも、このような抽象的で漠然とした理由ではなく、もっと具体的な理由に辿り着きたいと思っていました。


そんな中、一冊の本に出会い、この本がちょっとしたヒントになったのです。
岡田法悦著の「キレたくないのにキレてしまうあなたへ」という本でした。


この本は突然キレてしまう人の心の中で、一体何が起きているのか、どうなっているのかを、漫画・イラストつきでわかりやすく解説してくれている本です。


この中で、「リトルお父さん・リトルお母さん」というワードが登場してきます。
これは何かと言うと、生い立ちの中で自分の両親の言動が頭の中にすみついて、いつしか呪縛をかけているというのです。(呪縛という表現は少しネガティブですが)


ここでいう両親というのは、本当の両親のことで、頭の中にすみついているのがリトルお父さん・リトルお母さんという風に表現されています。


そして物心がついた時から、「◯◯しなきゃダメだよ」という頭の中の声(リトルお母さんとリトルお父さん)と、自分の中から湧いてくる「でも本当は◯◯したい」という感情とが衝突を起こし、小さな葛藤が蓄積されていきます。


たとえて言えば、水がたくさん入った水風船が突然パーンと割れる状態が「キレる」という不思議な現象を生み出してしまうというのです。


「不思議」と私が表現したのは、周囲の人から見るとどうしてこんな些細なことでキレてしまうのか全くわからないからです。
本人ですらわかっていないことがあるくらいですから。
その人の中の水風船にどのくらい葛藤という水が蓄積されているのか誰も見ることができませんから、目の前の「割れた現象」だけを見るととても不思議に映るわけです。


この頭の中にすみついている「声」が、幼い頃に自分を育て、しつけてくれた両親の「声」だとすると、自分の中に2つの世代が共存している状態になります。


少々乱暴ですが、例えば50代の親と20代の子供の場合、◯◯しなきゃダメだよ、というX世代の声と、でも本当は◯◯したい、というZ世代の声とも言い換えられるでしょう。


そう考えながら、さらにもっと長いスパンで考えると、X世代にも親がありますし、Z世代もいつかは親になるので、この関係は連鎖するのではないかと考えました。


実際の現実社会では世代ごとに価値観や幸福感は変化しています。
ですが、それは外側からの影響によって変化している要素が大きいと考えました。
変化を受け入れて適応していくうちに、色彩の異なる世代の特徴を形成する結果になっているのかもしれません。


では人間の内側はどうでしょう。
オギャーと生まれ、赤ん坊は2つくらい前の世代の親に育てられます。その声に従って生きていき、やがて物心がつき、10歳ごろには思春期にさしかかります。
「えっ、そんな考え方では対処できない。どうしたらいいの。」といった葛藤が生じ悩む。
その積み重ねによってあるとき調子が狂ってしまう。


そして調子が狂ってしまったり行き詰まってしまったりして困った方が、私のところに来て語ってくれる話は、どの世代の人にも共通する悩み、という感じになるのではないかと考えました。


悩みの事柄は全く違っているのですが、丁寧にうかがっていくと、自分の中にすみついている、リトル父リトル母VS本当の自分、もう少しわかりやすく展開しますと、こうでなきゃだめVSこうしたい、という葛藤が顔を出してくるのです。


そうなると、やはり世代に関係なく「悩み」も「幸福感」も、時代を超えた普遍性のあるものが浮かび上がってくる気がしてきました。

それでも人生にイエスと言う

そんな問いの答えを模索していた時に、「ロゴセラピー」という言葉が浮かんできました。


産業カウンセラーの養成講座で活用した教科書で初めて目にしました。
養成講座中のカウンセリング練習や実技面接ではほとんど話題に上がってきませんでしたが、筆記試験の勉強時に、教科書に載っていた「ロゴセラピー」にハッと立ち止まりました。


ロゴとは「意味」のことです。


ロゴセラピーの理論を最初に立ち上げた人はフランクルです。
この人の書いた著書“夜と霧”を読んだことを思い出しました。


フランクルは、人間にとって限界状況と思われるアウシュビッツ強制収容所(正確には支所)にあって、なおも人間の尊厳を失わず、生きる希望をすてなかった精神科医であり心理学者です。


ここで、横道に逸れるようですが、必ず本題に戻りますので、しばらくお付き合いください。
さて、これだけ古今東西「心理学理論」があると、どの心理学を選択していいのか迷ってしまいます。
どの学説もそれなりに素晴らしいことを言っていますし納得のいくものばかりです。
その時その時で活用する側の自分も変化していくので、選択するものも変わっていきますし、複数の理論や分析を用いていくこともあると思います。


私自身は迷った時にどうしているのかといいますと、その理論や学説を唱えた人物が、幸せに生きられたのか、強く生きられたのか、賢く生きられたのか、正しく生きられたのか、という様に、提唱者の人格や生涯をたどってみます。
人と説は、体と影の様な関係だと思うからです。


例えば唱えた人みずからが、精神疾患を発症し、周囲の人や自分の人生を恨みながら死んでいったとします。その人の学説は良いように見えても、自分自身さえも幸福に導けなかった心理学理論であった、と言うことになってしまいます。


そういう意味で、私はフランクルの言っていることを学びたいと思っていました。

それは、フランクルの中に「人格の輝き」を感じ取ったからです。自ら絶望に襲われる体験を通して、何を拠り所にすれば人間は生き抜いていけるのか、その自説を打ち立てたはずだ、と思えてなりませんでした。


そう思いながら、さらにフランクルの別の著書「それでも人生にイエスと言う」を読んだ時、深い感銘と納得が得られました。この著書はフランクルがナチスの強制収容所から解放された翌年にウィーンの市民大学で行った三つの連続講演をおさめたものです。


ここから少しこの著書の中から抜粋します。
心の支えをなくした時に身体がどうなるかを物語る、アウシュビッツ強制収容所のある囚人の話が出てきます。

 

✒️彼は奇妙な夢を見たというのです。
「二月の中頃、夢の中で、私に話しかける声が聞こえて、何か願いごとをいってみろ、知りたいことを聞いてみろっていうんだ。
答えてやれる、未来を予言できるっていうんだ。
そこで、私は聞いたんだ。
私にとっていつ戦争が終わるんだって。わかるかい。私にとって・・・というのはアメリカの部隊がやってきて私たちを解放してくれるのはいつかということだ」。
「それで、その声はなんと答えたんですか」。
彼は身をかがめて私の耳に口をつけ、意味ありげにささやきました。
「三月三十日、だよ」。
三月の中頃、私は発疹チフスになって衛生室に入れられました。
四月一日にそこを出て自分の棟に戻りました。
棟の最年長者だったその人はどこにいるのかとたずねました。
そこで私は知ったのです。
三月の終わりごろ、夢の声が予言した期日がどんどん近づいてきたのに、戦況はその声が正しかったとは思われないような様子でした。
その人はどんどん元気を失っていきました。
三月二十九日、彼は高熱を出しました。
三月三十日、戦争が「彼にとって」終わるはずだったその日に、意識を失いました。そして三月三十一日に彼はなくなったのです。
発疹チフスで亡くなったのです。」🖋


精神的な支えをなくし、将来を支えにすることができなくなって心理的に落ち込むと、身体的にも衰えてしまうことを物語っています。
病は気から・・・、と昔からよく言われますが、ここでフランクルが言っているのは心と体の関係のことだけを言っているのではありません。
心の支えを「何に」することが、人生を生き抜く力になるのか、ということを言っているのです。


こころの支えを「将来」にするのか、「永遠」にするのかで大きく変わってくるというのです。

「永遠」と言うのは、おそらく「今・ここ」の連続の意味の「永遠」だと私には感じられました。


ここからまた本の抜粋をします。

✒️もうすぐ戦争が終わるといううわさが幾度となく立ちましたが、そのうわさは苦悩を増すだけでした。
終戦の期日はそのたびに引き延ばされたからです。それでもまだ、そんな知らせを信じる人がいるでしょうか。
私はまる三年にわたって幾度となく、“あと六週間たったら戦争は終わる。遅くても六週間でまた帰れる”という話を聞きました。
幻滅はますます苦くなり、ますます深くなりました。期待はますますためらいがちになりました。🖋


今はこうだけど、未来はこうなるはずだからもう少しの辛抱だ、という心の支えもありますが、そのような生き方をした人より、「今・ここ」を、こういう「意味」として捉え味わってみよう、という心の支えの方が人間を強くすると言っています。


生き抜くために自分でつくる「生きる意味」は、ものすごく重要なものだと思いました。
私は「幸せな人生を歩む」人とは、一つには「生きる意味を自分で作り出す」ことができた人なのではないか、と思うようになりました。
ロゴセラピーでは「人間は意味を見つけたい生き物ではないか」とも言っています。
幸せになるために「生きる意味」を見つけるのではなく、そもそも人間とは「意味を見つけたい」生き物だと言うのです。


どちらにしても、意味を見つけられて、それに生きられたのなら、たとえ社会的地位や名誉が得られなくても、お金持ちでなくても、病気を患っていても、幸せな人生を生きられた、と思えるかも知れないと思ったのです。
それは自分の内面に自分が構築した「支え」なので、何者にも侵されず誰人にも奪うことのできない強いものになるからです。

「今・ここ」に生きる

生きる意味を見つけていく時に、先ほどの著書の中に書かれている囚人の様に、「いつか・別の場所」に自分の幸せの状態を目標に、今とここで展開されている現実に我慢や犠牲を強いてしまうとします。


その生き方はこういうことになるかも知れません。
例えばその「辛い今」の積み上げにより、ようやく「辛い今日」を終えられたとします。
そして次の日も同じように過ごしたとします。
その連続がその人の人生になっていった時、「幸福な人生」と言えるでしょうか。


反対に、今の辛さに「こんな意味にとらえてみよう。深く味わってみよう。」と言う姿勢で過ごすとします。
それがたとえ自分にとって辛い時間であったとしても、その感情の凄まじさ、ザワザワする感じやドロドロした感じの中に身を置いて、それを十分感じます。
そしてその感情と対話をするように過ごします。
もしかしたら楽しい時には感じられない、底知れぬエネルギーやパワーがあることに気づくかも知れません。


私の体験をお話しします。
苦しい時間を味わっている時、その闇の深さに驚かされました。
強い不安感と孤独感に襲われた時、落ちるところまで落ちてみようと思いました。
底なし沼のように闇は続くと思い込んでいましたが、そうではありませんでした。
まるで「ここが一番の底ですよ。」と何かに教えられた様な瞬間が訪れました。
もうこれ以上は下がらない平な場所、船で例えると船底をノックして「コン」と音が響く様な感じを味わった貴重な体験をしました。
さらに負のエネルギーも、「エネルギー」であることに変わりがないことを感じました。


もし苦しい感情に振り回されることが怖くなり、途中で感情にふたをしてしまったら・・・?また苦しすぎて感情の外に飛び出していたら・・・?
もし不安を解消したくなって何か対策を考えて行動を起こしてしまったら・・・?
この一番下の底を認識する体験はできなかったと思いました。
そしてこの体験がなかったら、いつもちょっと「不安」になるたびに「底なし沼に足を取られてしまう。」と勝手な勘違いを起こして、不安が不安を呼び起こす思考の癖がついてしまったかも知れません。


そして一番底に立って周りを見渡すと、もう上しか見えませんので、あとはゆっくり上がるだけでした。その上がっていくプロセスの時も、丁寧に味わうと面白いものが見えてきました。下に下がってきた道とは、また違う道を辿って元の位置まで戻ってきた感じがしました。


子供の頃に海で溺れそうになり、もがけばもがくほど上に上がれなくなる恐怖を経て、大きな潮の流れに飲まれた瞬間、体が浮き上がって安堵したこと、自然の力の偉大さと不思議さを体験した日のことも思い出されました。自然のエネルギーに身を委ねるということも大切なことのように思いました。


また、苦難を味わっていくことを楽しんでしまう人もいます。


小泉元首相が、あるインタビュアーに、「大きなストレスを感じた時には、どのように対処しているのですか?」と聞かれ「もっと大きなストレスで乗り越える」と答えていました。
サーファーが高い波にチャレンジ精神が湧いたり、登山家が険しい山を踏破しようとワクワクしたりする様な、たくましさを感じました。


もしこれが「高い波は怖いし、険しい山は苦痛だが、歯を食いしばって頑張ったらきっといいことが待っている。」と言い聞かせて頑張ってしまったとしたら、波乗りをしている瞬間や一歩一歩登っている時間は、後の良いことのために犠牲を強いる時間になってしまいます。


そこにあるのは「今・ここ」にいることではなく、「将来への期待」しかありません。
将来に「安心」や「幸福」や「成功」が約束されているならいいのですが、そうとも限りませんし、思い描いていた未来が、実際にはもっと思ったものより小さかったり低かったりするかもしれません。そもそも先のことはわからないのですから心の支えにするには無理があります。


そう考えると、やはり「今・ここ」に意味を見出し、味わっていくことができる、そしてその瞬間瞬間を積み上げた人生が「幸福な人生」となるのではないでしょうか。

ありのままに生きること

さて、この「今・ここ」に生きることの充実感について述べてきましたが、実は私が最近注目している「ゲシュタルト・セラピー」の基本的な考え方の一つがそこにあるのです。


ゲシュタルトセラピーの考え方の一つに「変容の逆説的な理論」というものがあります。
これはA・バイザーというゲシュタルティストによって1969年に提唱されました。
その内容の核心は、
「本質的な変容は、人が自分でないものになろうとする時ではなく、ありのままの自分を体験する時に起きる」というものです。


ありのまま生きよう、ありのままに生きたい、周りの目を気にせずに、格好つけずに・・・。そんな風に思っている人はとても多いと思います。


ところが、これは意外と難しいものなのです。


なぜなら、ありのままの自分がどういう自分かわからない、ということが一つにはあるからだと思います。


ありのままの自分って?・・・その漠然とした疑問を解消していくために必要な認識として、自分という存在は、決して「思考」だけで成り立っているのではないという認識をしっかり持つことが大切なのではないでしょうか。


「思考」は大切です。しかし思考の中にどっぷり浸かっている間は、「感じる」ことが十分にできないものです。「考える」ことと「感じる」ことを同時にすることは難しく、むしろできないと言っても過言ではないかも知れません。


幼少期から私たちは「感情に振り回されないように」とか、「よく考えて行動しなさい」と言われ続けてきたので、「考える」ことの価値は高くて、「感情」は自分を悪い方に引きずってしまうもの、悪いもの、というニュアンスがなんとなく植え付けられてしまっていると思うのです。


この植え付けられてしまった価値観こそ、ありのままの自分が何かをわかりにくくさせてしまうものなのではないでしょうか。


そんな時は、考えることを時々意識的に停止して、「今、どんな気持ちなのかな?」と自分の感情の方にアクセスしてみると、感情というものがどれだけ豊かなものなのか、考えている自分とは全く違う何かが混々と泉のように湧いていることに驚かされます。

 

その感情の声に耳を傾けていくうちに「ありのままの自分」が体にしみるようにわかってきます。

加えて、体の声はもっとありのままの自分に近い・・・むしろ体の声のこそ、ありのままの自分と等しい存在なのかもしれません。


私が考える「幸福な人生」に、
「生きる意味を見つけられること」

「今・ここに生きること」

「ありのままに生きること」
この3つをあげてみました。


そしてこの3つがバラバラなものではなく、それぞれに関連性があるということもご理解いただけたことでしょう。

話すことは放すこと

ところで私のスーパーバイザーであるカウンセラーは、「話すことは放すこと」だとおっしゃいますが、私はこの言葉がとても好きです。
心に抱えたモヤモヤした感情を言葉にして話したとき自分の中から放せていけます。
そして放せた時に、放せた分の空白のスペースが心の中に確保されます。
そのスペースが「新しいものを入れられそうだよ。」と自然と教えてくれると思うのです。


そのスペースにどんなものを入れていけると悩みやモヤモヤが晴れて、前を向いて歩いていけるのでしょう。


私はこのように思います。
外から新しいものを入れるのではなく、放したものを戻すということです。


もちろんそのまま戻すのではありません。
テーブルにバラバラに散らばってしまったジグソーパズルのピースを今までと違う新しい絵に繋ぎ合わせて心の中に丁寧にもどしていく作業です。
もちろん、ピースとはその人の感情のピースです。


例えば、
・ 抑え込んできた感情 🔗 抑えていた蓋
・ 過去の自分 🔗 今の自分
・ 今の自分 🔗 未来の自分
・ リトル父母 🔗 本当の自分
・ 感謝している気持ち 🔗 その人に傷つけられた気持ち
・ 母親に対する怒り 🔗 自分への許し
・ 悲しかった出来事 🔗 その意味
・ 今の自分の感情 🔗 それを受け入れられなかった今までの自分


分断は生きる気力を失わせ、反対に統合は生きる希望を生み出していきます。
感情もまたそうだと思わずにいられません。

対話の力

ピースを新しい絵に繋ぎ合わせる時に、必要なことは対話だと思います。
自己対話もとても大切で効果があるものだと思いますが、時折、自分の中の思考回路を変えていくことが難しくぐるぐる同じところを回ってしまうことがあります。


ところが、他者と対話をすると、客観性や新しい視点が入る上に、共感や共有によって自分の感情に温かい眼差しを向けられるようになるため、分断したものを統合していく作業がスムーズに進みます。


思いがけず新しい絵を作っていくことや新しい回路を繋げていくことがしやすくなります。その結果、自分を肯定的に捉えることができ前を向いて歩いていけるようになります。


また、対話をするということは、自分の思いを言語化することから始まりますが、これ自体も大変な癒しになります。


アーシュラー・K・ル=グヴィンは「私と言葉たち」という著書でこう述べています。

 

✒️私たち人類は言葉の種なのです。言葉は知性と想像力を乗せて飛ぶ翼です。
音楽・舞踊・美術・あらゆる種類の技。それらは皆、人間の発達と幸福にとって非常に重要なもので、いかなる芸術あるいは技も、無用な学びになることはありません。
しかし、直近の現実から飛び立ち、新しい理解と新しい強みを得てそこに戻ってくる訓練としては、詩と物語に匹敵するものはありません🖋


私は、人間は人間に向かって「言葉」を介して思いを伝えたい生き物なのではないかと思っています。アーシュラーは「言葉は知性と想像力を乗せて飛ぶ翼」と言っていますが、
とても的確に、そして詩的に「言葉」というものを表現していると感じました。


カウンセリングの場面でこういうことがありました。


「こんなことがあってとても不安だったのです。」とクライアントが言ったとき、
「そう・・・それは辛かったですね・・・。」と私が応えると、
「いや、辛かったわけではないです。」と言いました。


不安だからといって辛いわけではない。
クライアントにとって、「不安」と「辛い」は違う感情だったわけです。
そしてそれをしっかり受け止めて欲しかったのだとわかり、私は反省をしました。
悲しい、寂しい、淋しい、苦しい、不安、嫌だ、孤独だ、辛い・・・これらは全て違う感情なのです。


このように、感情を言語化することが癒しにつながるというのは、同じネガティブな感情でも違う感情や、その感情の中でも微妙な違いや重さや質感を表現することで「自分」と「感情」との対話が始まるからです。


ここで、私が未熟さゆえに、クライアントにアドバイスしてしまい、以前学んだロジャーズと対話していると想像して原点に帰ろうとしたことがありました。
その時の呟きをブログに載せました。それをここにコピペしてみます。

私 「ロジャーズさん、私はどうしてもクライアントにアドバイスしたくなってしまいます。アドバイスってダメなのですか?」


ロジャーズ 「・・・アドバイスしたくなる気持ちはわかりますよ。相手を何とかして元気づけたい、助けたい、苦しさで狭くなってしまった視野を広げてあげたい、そんな気持ちになってしまうのでしょう?」


私 「・・・はい。」


ロジャーズ 「クライアント側になって考えてごらん。・・・誰にも言えない悩みを1人で抱えて苦しんでいるのだよ。その末にあなたのところにやってきた。勇気もいただろうし、緊張や不安もあったでしょう。それなのに、まだ全部話してもいないのに、すぐにアドバイスをされた。アドバイスを聞いている間中、『本当にわかってもらえているのかな?』と感じているかもしれないのだ。自分の気持ちのつらさ、苦しさ、悲しさ、痛み・・・その感情にとどまって、一緒に感じてくれない、一緒にそこにいてもらえない・・自分を置き去りにして、カウンセラーはどこか他のところにいってしまった・・・そんな気持ちになっているかもしれないのだ。それから、強弱の関係の弱、上下の関係の下にさせられたような気持ちになる場合もある・・・。アドバイスというものは諸刃の剣になってしまうのだ。」


私 「そこに一緒にいるというのはどういう意味なのですか?」


ロジャーズ 「クライアントのつらさ、苦しさ、悲しさ、痛み・・・その感情の中に一緒に踏みとどまるということだよ。踏みとどまって聴いているのはけっこう苦しいものだ。カウンセラーがその苦しみにとどまっていたくないから、逃げたくなって、わかりやすい策や技を提示して、目先を変えたくなるのだ。アドバイスしたくなる気持ちの中には、自分のどんな気持ちがあるのか、心の中をよくのぞいてごらんなさい。」


私 「そうかもしれません・・・、でも、それのどこがいけないのか・・・わかるようでわからないです。」


ロジャーズ 「クライアントは、『この世界でたった1人、他の誰にもわかってもらえない、つらさ、苦しさ、痛みを、いっしょにそこにとどまって、ただそのまま受け取って、いっしょに感じようとしてくれている人がいる。分かち合ってくれようとしている人がいる・・・』そういうことを心の奥底では求めているのだよ。」


私 「“わかってほしい”“わかち合ってほしい”・・・ですか? 私もそういうものを求めたくなるので、何となくわかります。・・・ですが、そのことで何か問題や悩みが解決するわけではないですよね?」


ロジャーズ 「それでも、やっぱり人間というものは、問題を解決すること以前に、『わかってほしい』と思うものなのだ。」


私 「わかってもらえることで、何かが変わるのでしょうか。」


ロジャーズ 「そこなのだよ・・・。じゅうぶん、わかってもらえると、人は初めて自分の気持ちに素直に向かい合うことができるようになるのだ。」


私 「そうなのですね・・・。」


ロジャーズ 「その後がもっとすごいのだよ。」


私 「・・・えっ?」


ロジャーズ 「こんどはね、自分自身が自分自身に耳を傾けるようになれるのだよ。たとえば、自分が何かに怒っていることに気づいたり、何に恐れていたのかはっきりわかってきたり、どんな時に自分は勇気を感じるのかわかってきたり・・・・。」


私 「その人が持っているその力を信頼して支えていく・・・、というのが本当の傾聴のあり方なのですね?」


ロジャーズ 「そうだ!!今まで直視できなかったこと、否認し、抑圧してきた感情に、クライアント自身が静かに耳を傾けることができるようになるのを、支えていけるから傾聴ってすばらしいのだ。」


私 「そしてどうなっていくのでしょうか?」


ロジャーズ 「人は自分を傾聴することができるようになると、自分自身に対して受容的になれるのだよ。今までは自分を責めたり、分析したり、ジャッジしたりしていた。それらが、全て“受容すること”に変わるのだ。受容というものはね、偽りの自分から“本当の自分“へ脱皮させていく切り替えのスイッチと言っても決して言い過ぎじゃないのだ。」


私 「受容ってそんなに力があるのですね。」


ロジャーズ 「そうなのだ。本当の自分になりたくなり、自分で自分の仮面を脱ぎ捨てて、防衛する生き方じゃなく、開かれた、そして自立した生き方を歩み始めるのだ。」


私 「かっこいい!!」


ロジャーズ 「そう・・・そんなかっこいい生き方をしてもらいたいでしょう。そうなら、その人の感情と一緒にいてあげなさい。どんなに苦しくても耐えてそこに一緒に踏みとどまってあげること。それが一番遠回りのようで近道なのだよ。」

未熟で読み返すと恥ずかしい気持ちになりますが、対話の中でも、特に傾聴を大切にしながらの対話は、互いの理解を深めていくものだと思います。


また、「話すことは放すこと」であっても、話せないことは話さないことも大切なことかもしれません。それは「今は話せない」という感情も、今のその人にとって大切なものだからです。


相手から少しだけの言葉のボールがくる。
そのボールを受け止めた時、自分が感じた気持ちをそのボールに乗せて投げ返してみる。
もし返したボールが相手にとって安心できるボールだったのなら、もしかしてもう少し大きなボールを投げ返してくれるかもしれない。
このキャッチボールこそが、お互いの心を解放していくと思います。


こうして対話を丁寧に繋げていくことが大切なのではないかと思います。

カウンセリングの学びを義務教育に取り入れる

私はカウンセラーになるための学びと、その後の6年間の実践の中で、カウンセリングマインドの重要性を痛感してきました。
このマインドを、地域に社会に広げていく発信をしたいと思い、草の根活動が一番有効だと考えワークショップを毎月開催しています。
参加者からは、とてもためになった、気づきが得られた、などの声があり好評です。


しかし、本当は他者とのコミュニケーションが始まる頃から、カウンセリングを学んでいたら、もっと人間関係も円滑になるのではないか、誰も置き去りにしない社会の構築に貢献できる人材を育てていくことになるのでは、と考えました。


ここで私が提案したいのは、「傾聴」や「カウンセリングマインド」を義務教育の中に盛り込んでいくという提案です。


教育現場で働いたことがあるので肌感覚で感じるのですが、一年間の年間計画があり、授業時数も決められており、その中でいくつもの行事が組み込まれています。
これ以上のものを入れることが難しいと感じます。


ですので、多くの学校が朝の活動の時間に取り入れている本の「読み聞かせ」の時間のように、年間に4回くらい「コミュニケーションスキル」(仮名)の時間を、朝の活動の中にとり入れることを提案したいと思います。


その学校に配置されているスクールカウンセラー、もしくはボランティアで募った地元のカウンセラーなど、できるだけその地域の人材で配置するのがいいのではないでしょうか。(地域活性化・地域密着に加えて、朝という時間帯は長距離移動が難しい)


子供と地元のカウンセラーが、顔と顔とで繋がることには、SOSが出しやすい・拾いやすいなど他の産物もありそうです。


朝の15分を1年に4回でも、少しずつカウンセリングマインドは浸透していくのではないでしょうか。


何年かその取り組みをしたら、それに加えて4年生から6年生の間に選択するクラブ活動の中に、「傾聴クラブ」を設置するということを考えました。このクラブの担当は、教員と地元のカウンセラーです。朝の活動で興味関心を抱く児童も少しずつ増えていくかもしれません。
一部の児童にしか体験できませんが、それでも少しずつカウンセリングマインドは浸透していくと考えました。


さらに次の段階です。


今度は小学校高学年から中学生にかけての、性教育の中に取り入れていくことを考えました。
これは、異性とのコミュニケーションという角度で差し込んでいき、異性とは体の構造だけではなく脳の構造も違っているということを学びます。例えば男性は問題解決脳、女性は共感脳・・・などです。そしてその違いを認め合い、違いを昇華していくための「言葉」や「共感」のあるコミュケーションスキルを磨くことが重要だという形でカウンセリングマインドを学ぶという提案です。


また、道徳の教材の中に「アサーションスキル」(自分も他者も尊重する表現)を主眼に置いた教材を扱うことも提案したいと思います。自分と他者の相違を感じ始めまると同時に、発達段階に応じてアサーションスキルを学ぶことに意味があると考えました。


このようにカウンセリングの学びを義務教育から少しずつ取り入れていくことを提案します。

加害者にカウンセラーをつなげる仕組みを

治安がよく平和のイメージのわが国でも、日々、耳を疑うような事件は日常的に起こっています。
先日も福岡で痛ましいストーカー事件が発生しました。


ストーカー規制法によって、ストーカー被害による暴行や殺人の減少はあるかもしれないが解決は難しいと思いました。
加害者が憎しみをはらすことしか考えられないほど怒りを溜め込んでいる場合、何かの拍子にそのエネルギーは暴走してしまいます。
被害者にフォーカスした法律だけでは弱いと思いました。
これからは加害者にフォーカスした対策が必要です。
加害者がなくなれば被害者もなくなるという観点も必要になると思います。
殺人は絶対にいけない事、それは人間として人類として揺らぐことのない共通認識です。
認識・・・ではありませんね。言葉がうまく見つかりません。情動、真理でしょうか。
ですが、人を殺したくなっている人も地獄のような苦しみの中にいます。そしてその苦しみから解放させられるのは人間でしかありえません。
そのことを理解し、苦悩の解放へと導く存在が、社会の中に全くなくなってしまうことは危険だと思います。
これだけ犯罪が多いのです。
今、問われていることは、「社会が何をしたか」ということだけではなく、「社会が何をしなかったか」ということかもしれません。手立てをしなかった・・・ことにも責任が問われてくる時代です。


そこで私が提案したいことは、被害者・加害者共にカウンセラーをつける仕組みづくりです。
そのプロセスをこのように考えてみました。

1. 警察介入のもと、心理専門職のトップ人が、カウンセラーを複数選びます。(20人ぐらい)

2. 被害者と加害者の今の気持ちを率直にレポートに書いてもらいます。この場には犯罪心理学が専門のカウンセラーが立ち合います。レポートに書く時の言語化も大事な問題解決や更生のプログラムとして重く扱うようにし、時間をしっかりとかけて本音で表現していただきます。もし本音をかけない様子であったら、ワークシートを用意して記入していただきます。

 

例えば加害者側のワークシートはこんな感じです。

あなたの今の気持ちを相手に全て受け入れてもらえるとしたら、何と言いたいですか。この言葉の続きを書いてください。何を書いても自由です。

俺は絶対別れたくない。俺の女でいてくれたら (                     )。
なんで俺から離れようとするんだ! 俺はお前のことを (                )。
そんなに別れたいのなら (                         )。
俺はどこまでもお前を探しだす。だって (                         )。
俺は犯罪を犯しても構わないよ。だって (                         )。

例えばこのような内容のワークシートにします。

3. このレポートに対し、専門家に推薦されたカウンセラーが、「私が感じたこと考えたこと、自分にはこうした経験がある。強みがある。自分だったらあなたとこのように関わるつもりだ。」など詳しくレポートに書いてもらう。

例えば、
「あなたのレポートを読みました。あなたは相手の女性を心から愛しているのですね。だから憎い。あなたは彼女しかいないと思っている。あんないい女はいないと・・・。それなのに自分から逃げていく。話も聞こうとしない。あなたは本当はやり直したい、あなた自身はもう一度チャンスが欲しいと思っているのですね、自分が変わるチャンスを。そして自分が変わることを信じてほしい気持ちがあるのですね。その反面、今まで散々彼女を苦しめてきた、傷つけてきたことも十分わかっていらっしゃる・・・謝罪したいし、その謝罪を彼女に受け入れて欲しいと思っているのですね。・・・・(略)しかし、もしここで相手に暴力を振ってしまったらどうなるのでしょう。あなたが犯罪者になってしまいます。悪者になってしまうのです。・・・私は、カウンセラーとしてこのようにあなたと関わりたいと思っています。それはこんなことです・・・。」などです。

4. カウンセラーのレポートを警察介入のもと、心理専門職のトップ人たちが読みます。その上で、このケースにふさわしいと感じたカウンセラーを5人ぐらいに絞り込みます。

5. 被害者、加害者、それぞれに5つのレポートを渡します。それを読んでもらい、自分について欲しい専属カウンセラーを1人選んでもらいます。選ぶことも大事な更生プログラムの一つとして重要視します。自分の行動に対し自分が責任をとっていく自覚を促すことになると考えました。また、「自分の人生は自分で選択できます。そして選んだことは自己責任を持ってください。そんなあなたをいつでも社会は応援しますよ。」が伝わるのではないでしょうか。

6. 安全を確保したところで、被害者とカウンセラーのカウンセリング、加害者とカウンセラーのカウンセリングを進めていきます。

7. カウンセリング料金は国が支払うようにするか、保険適用にして(法制化して)本人たちが支払います。(適用回数を制限する。例えば90分のカウンセリング3回まで等・・その後継続したい場合は本人負担で)

被害者と加害者がレポートを書いたり、20人のカウンセラーがそれに対する見解レポートを書いたりする以外を、徐々にAIが介して行うようにすれば時間短縮で進められると考えました。

※ 被害届けを警察が受理してから、1〜7の流れを法律化して義務づけるようにしてはどうかと考えました。
被害届を出された加害者側は、警告で終えられるほどの軽度だとしてもカウンセリングは必要なこととして受けていただきます。その理由は、軽度であるのか重度であるのかは誰にもわからないからです。
本人さえもわからないかもしれないですし、今と未来、冷静な時と興奮状態なときとは違ってくる可能性があるからです。
どちらにしてもカウンセリングが無駄になることはないと考えました。


自分をわかってくれる人が1人いたから、私は生きられた、人生を変えられた、という体験が満ち溢れています。これこそが人間の真実だと思います。
カウンセラーは社会が提供できる「最後の砦」として活用してほしいと思います。


小さい事件から大きな事件まで被害者も加害者も大勢います。同じくらいカウンセラーも大勢います。そうであるならば、それらをうまく繋ぐことができれば犯罪を無くすことに貢献できると思い、この仕組み作りを提案します。

カウンセリングに保険適用を

最後に提案したいことがあります。
それはカウンセリングに保険適用をして欲しいということです。これは自分の欲得のために声をあげているわけではありません。
実際に精神科医が救えない人を救っているカウンセラーを大勢見てきました。
私はカウンセラーこそが心を病んだ人にとっての「最後の砦」だと思います。


医療行為にだけ保険を適用させることを見直さなければ優秀なカウンセラーであっても仕事としてやっていけません。
この仕事一筋で生計を立てることが難しいのは、カウンセリング料がクライアントにとっては高額すぎてドアをノックすることすらできないからです。
心が病んでいる故に仕事も満足にできなく苦しんでいらっしゃる人が大勢います。
ですがそういった方がカウンセリングを受けて生き方を見直し元気になれたら働ける人も増えていけます。
この人々に光をあてていくことは「誰も置き去りにしない社会の構築」に貢献できると確信しています。
今の仕組みでは、支援が必要な人も、支援したい人も共倒れになってしまいます。
しかもどちらも数を数えたらすごいことになっているのです。
うまくつなげる仕組みづくりを早急に考えていただけたらと思い、加えて提案いたしました。

〈参考文献〉

  • 識学総研「Z世代とは?年齢や特徴、X・Y世代との違いを解説」 (https://souken.shikigaku.jp/15750/) より抜粋

  • 「キレたくないのにキレてしまうあなたへ」 岡田法悦著

  • 産業カウンセリング---産業カウンセラー養成講座テキスト---

  • 「それでも人生にイエスと言う」 ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳

  • 「私と言葉たち」 アーシュラー・K・ル=グヴィン著

  • 「孤独であるためのレッスン」 諸富祥彦著

  • 「ほんものの傾聴を学ぶ」 諸富祥彦著

  • 「ベスト・パートナーになるために」 ジョン・グレイ著 大島渚訳

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