
心理カウンセラーが社会に発信する幸福提言
第3回 対話の力を信じて
2025.1.26(日)
心理カウンセラー 萩原法代
はじめに
世界に目を向けると、人類を脅かす問題が山積しています。
20代の頃は、世の中はだんだん平和になると信じていました。
世界中のリーダーが、力による支配ではなく人道主義的貢献度を競い合う時代に変わり、目を見張るような優れたリーダーシップを発揮していくものと思い描いていました。
2022年4月にウクライナ危機が起こった時、テレビから流れてくる映像が本当に21世紀のものなの?と疑うほどでした。
その後、次々と分断と戦争への流れが広がっていき、人類はどうして同じ過ちを繰り返してしまうのだろうかとやりきれない気持ちになります。
しかし諦めてしまう前に、自分にできることを見つけて悔いのない生き方をしよう、そうしなければ私は自分自身にがっかりしてしまう気がしました。
私の好きなアーティストの歌の歌詞に
🎵 世界を変えるなんてできるはずもない
でもどこかの誰かの心に
小さな明かりを灯すことならば
私にもできるかもしれない 🎵
という一節があります。
わたしも私にできる「明かりを灯すこと」を考えてみました。
そして分断の拡大によって未来に不安を感じ、恐れて怯えている今、私は分断の逆をやっていこうと考えました。
分断の逆とは?・・・「繋がり」「共感」「愛」・・・などのキーワードが次々と浮かんできます。
その中から、一つ閃いたキーワードがありました。
それは「対話」というワードでした。
幸い、私はそれに関連した仕事についています。
バラバラになっているものを繋ぎ合わせる・・・それには「対話」というツールが必要だと思います。
「対話」こそ、目の前の人の心の中に起こる分断を統合へと向かわせる鍵になるのではないかと思いました。
さて、日常に目を向けてみます。
この1年いろいろな方がカウンセリングルームを訪れてくださいました。
ほとんどの方が「カウンセリングというものを受けるのは今日が初めてです。」とおっしゃいます。
カウンセリングを受けるということに対して恥ずかしさや抵抗を覚える、心の内を話すことは「弱さ」と見なされるという周囲の偏見を何となく感じ取っている、そんな人がまだまだ多いのかもしれません。
ただ一方で、心の健康に関心を持つ人々は年々増えてきており、一昔前よりはカウンセリングを受けようとする人は増えてきていることも事実だと思います。
私の理想の社会は、カウンセリングを受けるということが、「髪が伸びてきたから美容院に行こう」という感覚ぐらいにまでごく普通のことになる社会です。
自分専属のカウンセラーを2つか3つKeepしておくという人や、イライラやモヤモヤを吐き出して気分を変える場としてカウンセリングを受けてみる、と気軽に考える人が増えていったらいいなあ・・・、と常々思っています。
私が尊敬しているカウンセラーに青木羊耳先生という方がいます。
コロナ禍以前、先生の元で逐語記録をもとにした勉強会に2年ほど通っていました。
先生は、「駅前カウンセリング」という夢を持っていました。
例えば、会社で嫌なことがあった人が、駅前にある短時間ワンコインで利用できるカウンセリングルームに立ち寄り愚痴をこぼす、そんな手軽なものになればもっとカウンセリングの裾野は広がり、裾野が広がれば山はどんどん高くなる・・・要するに心の病に対する専門的な研究や心理療法も裾野の広がりに比例して高くなっていくはず、という考え方をお持ちでした。
それを聞いて「本当にそうなったらいいなあ・・・」と私も思いました。
そんな地域社会になることを自分も思い描きながら、私が今ここでできることは何かを見つけて、日々精進したいと思っています。
何故?に立ち止まる
さて、相談者と何回か対話を重ねていくと、心の内側に変化が起きたり、現実に抱えている問題が解決したりしますが、そこに至るまで長い期間が経過することがあります。
「カウンセラーの私が力不足なのだろう・・・。」と自信を失いかけている時に、急に相談者がいらっしゃって、「問題が解決したのです」と報告をしてくださることがあります。
嬉しいと思う反面、対話という原因と心の回復という結果にタイムラグがあればあるほど狐につままれた気持ちになり、「カウンセリングが問題解決のきっかけになったのかどうか、私にはハッキリとわからないなあ・・・。」と戸惑うことがあります。
最近、心の回復を目的にしたカウンセリング、という捉え方が少々腑に落ちてこなくなってきたのです。
手段(カウンセリング)と目的(心の回復)が、原因と結果の関係になっていると言い切れないのでは?という感じがしてきました。
そんな時、精神科医、精神分析家、そして著述家でもある斎藤環氏の著書に出会いました。
斎藤氏はその著書の中でこのように述べています。
「対話は手段ではない、それ自体が目的である。治癒は副産物としてやってくる。」
対話そのものによって、心の回復は後から勝手に起こってくるものだということを斎藤氏は述べているのでしょう。
私はこの斎藤氏の言葉が自分にとって、とても重要な観点に思えて何度か口に唱えてみました。
「副産物」という表現にも大変心を惹きつけられました。
そう考えてみた時、対話そのものにどんな力があるのか、そしてなぜ心の回復が起こってくるのか、立ち止まって考えてみたくなりました。
それがつかめたとしたら、カウンセラーや心理士といった専門職だけではなく、すべての人々が縁する人々と互いに助け合える社会を構築できるのではないかと思ったのです。
そんな疑問と日々の気づきを重ね合わせながら「対話の力を信じて」、というテーマで進めていきたいと思います。
自己対話の力
相談者と語り合う中で私が気づいたことは、ここに来る前にすでに自己対話をしている方が非常に多いということです。
Aを選びたい自分と、Bを選ぶべきだと思う自分とのはざまで起きる葛藤、
「こうしたい」と望んでいる自分と「そんなの無理だよ」と現実を突きつけてくる自分とが内面で往来している、などの葛藤のようなものや揺れているようなものでも、大雑把に「自己対話」としてくくったとして、そのこと自体とてもいいものだと私は思っています。
心の中で自分と対話をすることは、自己理解を深め、感情を整理してくれます。
また、どんなときに自分が幸せを感じるのか、どんなことに怒りを感じるのか、といった自分の価値観や信念、感情の根源を探ることもできます。
それによって、より自分にふさわしい選択ができることもあります。
自分に優しい言葉や励ます言葉、共感する言葉をかけているうちに、ストレスが軽減され心の安定を保たれてくることもありますし、このことで自己肯定感が高まり困難な状況にも自信を持って対処できるようにもなります。
また自己対話は、自分の中の潜在意識とつながる手段にもなります。
新しいアイデアや解決策が浮かびやすくなり、創造的な思考が刺激されることがあります。
私も毎日1人時間を意図的に作り、フォーカシング(昨年の提言で詳細を述べていますが)を続けています。
1日の中の何でも無いような時に、ふと面白いアイディアや解決の糸口になるようなヒントが浮かぶ・・・そんなことが増えてきました。
自己対話は直感と理性のバランスを取る助けにもなります。
直感がひらめき、心が震えた時に、「湧いてくる感情」と対話します・・・「どうしてこんなに私を惹きつけてくるのだろうか。」そのわけを探る過程で理性は磨かれていきます。
直感をもとに、自分が望んでいることを認識でき、それらを具現化するために理性を磨く。自己対話を通して直感と理性はどちらかを打ち消すことなく止揚されていきます。
しかも、いつでもどこでも、今この瞬間のここでも、お金がなくても自己対話はできます。
このように自己対話はいいことづくし、だと私は常々思っています。
少し余談になりますが、ここでアメリカの心理学者パット・パルマーさんの「怒ろう」という著書の中で触れている自己対話の方法を少し紹介させていただきます。
この方法は私もよく取り入れています。
紙とペンを用意します。
左手でペンを握り、自分の本音を書きます。
次に右手にペンを持ち換えて、それに対して何といってあげたいのか、安心させてあげられるのかを考えながら優しく言葉をかけるように書いていきます。
それをしばらくくり返していきます。
右利きの人はこの順序ですが、左利きの人はその反対でやります。
左手(私は右利き)ではあまり複雑なことが書けないので、短かな言葉で気持ちを書くようになります。
それはそのまま第一次感情を表現する言葉に近く、その根本的な感情と向き合う状況を自然に作りやすくなります。
「第一次感情」とは最も基本的で即時的なもので、「喜び」「怒り」「恐怖」「悲しみ」など本能的に感じる感情で状況に反応して瞬時に現れるものです。
自己対話が複雑になってしまう原因の一つに、理性と理性がぐるぐる同じところを回っているだけのようになってしまうことがあるのではないでしょうか。
大人同士のディベート、片方の考え方をもう片方が打ち負かすような対立にもよく似ています。
自己対話がそうなってしまうと、自分の内面がすっかり疲れてしまう上、より良い解決への道程から離れていってしまうことにもなりかねません。
しかし、先ほど述べた「第一次感情」と向き合って共感しながら寄り添っていくうちに、感情を温かく包み込みながら「じゃあ、今度はこうしてみようよ。」という言葉をかけやすくなり、またそれを素直に受け入れやすくなりました。
その上、左手で書く文字が、自分がまるで5歳くらいの時に初めて書いたひらがなのようにも見えてくる・・・という効果があります。
下手でも可愛いその字を見ていると、自分のインナーチャイルドの声とも読み取れるという効果も感じます。
パットパルマーさんの提案している「右手と左手にペンを持ち換えて紙上で対話する」自己対話をやってみて気づいたことは、癒しが起こる自己対話のコツとして、第一次感情と向き合うことから始めるのが良いのではないか、ということでした。
他者との対話の力
いいことづくしの「自己対話」を私なりにまとめてみましたが、次に他者との1対1の対話の良さやその力に目を向けていきたいと思います。
まず良さを考えた時、視点の違いを得られるということがあるのではないでしょうか。
他者と話すことによって、自分とは異なる視点や意見を知ることができます。
これにより、物事を多角的に見る力が養われ、自分の思考が深まり、自分の意見や感情に閉じ込められず広い視野を持つことができると思います。
自己対話は自分の中での気づきや発見を促しますが、その気づきは基本的に自分の過去の経験や知識に基づいていることが多いものです。
他者との対話は、これを超えた新たな情報源や異なる経験を提供してくれると思います。
その他利点として、対話の中で学び互いに成長できる機会が生まれるということや、日常のストレスや負担を軽減することがあります。
気軽な会話であれば、楽しい時間を共有することができ、精神的な疲れを癒すことができるということは、誰もが経験ずみのことでしょう。
このように、他者との1対1の対話は、自己対話にはない「他者の視点」「共感」「新しい情報」などを提供してくれる貴重な機会と言えそうです。
対話を通じて自分の成長や問題解決の新たな可能性を見つけることができ、また人間関係を豊かにし、精神的にもリフレッシュすることができるのではないでしょうか。
ここで、「人は人に向かって話をしたい生き物なのではないか」と感じた私の体験を述べさせていただきます。
私は一時、エンプティチェアというものにハマっていました。
私のスーパーバイザーとなっていただいているカウンセラーさんのところに通っている時に、勉強ついでに、私の悩み(人間関係)を聞いていただいたことがありました。
先生は、「萩原さん、エンプティチェアをやってみましょう。」と提案してくださいました。
先生の指導の元、自分自身がクライアントとなってその手法を受けてみたのです。
エンプティチェアというのは、ゲシュタルト療法で用いられることで有名です。
クライアントが座っている椅子の前に、誰も座っていない椅子を置きます。
誰も座っていないのですが、自分を悩ます相手が座っていると想像します。
その椅子に向かって自分の感情や考えを伝えます。
この時、私が相手に感じている不快感を、空の椅子に座っている相手に伝えました。
その後、今度は相手の椅子に座り替え、先ほど私がその人に向けた言葉を受けて、今度は相手になったつもりで反対席の空の椅子(そこに座っていると自分を想像して)言葉を返します。
それを何度か繰り返したのですが、最後は私のことを相手が誤解していることや、相手は何も私に対して悪気はなくそうしていることが身に染みるように理解できたのです。
しかし、私に気づきが起きたのは、その後でした。
自分の内面の「私」と自分の内面の「相手」の対話を演劇のようにやっている対話なので、1人でもこれならできるのではないかと思い、1人時間の時にやってみました。
しかし、どうしても独りよがりの対話がくり返さてしまう感じになってしまい、スーパーバイザーの元でやった時のようにスッキリ心が晴れませんでした。
私はスーパーバイザーに次にお会いした時、率直に「どうして1人でやるとうまくいかないのか。」考えをうかがってみました。
すると、先生は「人間は、やはり人間に話したい生き物なんじゃないでしょうかね。」と一言。
自分以外の人間が介入して、自分の中の自己対話を進めている間中、やはり私はカウンセラーが聞いているということを意識しているし言葉も選んでしまう・・・それでは本当の自己対話にならないのではないかと思ったのですが、ポイントは自分の側にあるというより、カウンセラーの力量なのだということがわかったのです。
先生はただ、エンプティチェアをしている最中「あなたはそう思ったのですね。」「あなたはそう感じていたのですね。」と、まるでミラーリングのように私の言葉を確かめたり繰り返したりしながらそのままを相手に伝えていたのです。
もしここで、先生の主観が少しでも入ってしまったら?
私が今やっている他者(想像上の)との対話より、介入しているカウンセラーに語りかけてしまい集中できなくなると思いました。
ということから、自己洞察を深める他者との対話、の効力を思う時、聞き手の側の在り方に重要なポイントがあることがわかってきました。
重要な点は話し手を無条件に受け入れ全て聞いている状態・・・そうでありながら話し手の他には誰もいない状態、そんな状態をにいかに作り出せるのか、そこが大事だと思いました。
その前提の上での「人間は人間に話したい生き物」ーーー。
要するに、人間というものは本来、否定も批判もジャッジもされずにまずは一旦受け入れて欲しいものではないだろうか、ということを実際に話す側の気持ちを体験して感じ取ることができました。
ここで、オンライン上での他者との対話にも少し触れたいと思います。
「スマホはどこまで脳を壊すか」という本を読んだ中で、とても印象に残ったところがありました。
それは、オンラインで対話する時と、直接会って対話する時の、互いの脳を比較した結果が紹介されていたところです。
筆者の見解のポイントは「視線が合うことによる脳の同期度」です。視線が合えば合うほど相手の感情などを共有しやすくなるというのです。
オンラインの画面上で対話する時には、視線を合わせることができないと指摘。
パソコンの場合で考えた時にレンズが機械の上か横に設置されているため、相手と視線を合わせようとするにはレンズを見ることが一番いいのだが、そうしていると相手の目を真正面から見ることが難しい・・・という原理を述べていました。
最近のパソコンではその障害が解消されているかもしれません。
また、パソコンやスマフォについているカメラを見て話せば、相手には視線が合っているように受け取ることができます。それを学習しているために、どちらかがそのような譲歩や工夫をすれば相手は視線を合わせてお話をしていると感じることができるのかもしれません。しかし、その場合、譲歩している側は相手と視線が合いません。
そして視線が合えば合うほど互いの脳は同期しやすくなることが研究でわかっているので、オンラインより直接会って対話した方が深いコミュニケーションができるということを述べています。
オンラインで相手の話を聞いている時の脳と、一人で何もしないでいるときの脳が、比較したときほとんど変わらない、という衝撃的な結果にも大変驚きました。
他者との対話のいろいろなケースを体験したり学んだりしたことは、私のカウンセリングにも反映されました。
相談者はただただ否定も批判もジャッジもされずに受け入れて欲しい、そして私はその状況を作り出せるまではまるで「鏡」のようになることが大事であることや、
できる限り自分をそのまま受け入れてくれる「人間」と対話がしたい、という相談者の欲求が満たされることがまずは大切なことなのだとわかってきました。
そのような聴かれ方を体験した話し手は、今度は自己対話でも、それを再現できるようになってくるのではないでしょうか。
そういう意味で、1対1の対話の良さと力を最大限に引き出すには、話し手よりも、聞き手の在り方が重要になることがわかってきました。
またオンラインで画面越しに対話をする時、または通話やテキストのやりとりで対話をする時には、相手の顔を見ながら、そして視線を今合わせている、ということを意識的に想像するようになりました。
オープンダイアローグの力
さて、今私が一番関心を寄せている対話の形の1つに「オープンダイアローグ」というものがあります。
オープンダイアローグ(Open Dialogue)は、1980年代にフィンランドで発展した精神的・心理的支援のアプローチで、特に精神障害や精神的な危機に直面した人々に対する治療法として注目されています。
斎藤環氏の「オープンダイアローグとは何か」という著書を読むと、
治ることのないと思われてきた精神疾患が「対話の力」で回復したという症例がフィンランドであがってきた・・・という事実に驚いてオープンダイアローグに関心を持ったことがわかります。
では「オープンダイアローグ」とは一体どのようなものでしょう。
本によると、困難に陥っていた患者さんがSOSを出すと、すぐに対話の場を作るようなのです。
そこには本人の他に、精神科医、心理士、看護師、ケースワーカーなどの専門家や本人にとって重要な家族などの関係者が集まります。
そして対話を始めるそうです。
森川すいめい氏の「感じるオープンダイアローグ」という本の中の「はじめに」というところには次のように書かれています。
✒️オープンダイアローグの「オープン」とは何か?
それはクライアントである本人やご家族などの関係者に対して開かれているという意味だ。
それまでの精神医療では、本人の情報が本人たちにクローズにされていたり、医療者が治療方針を本人のいないスタッフルームで話し合って決めたりしていたが、ケロプダス病院はそういうことをなしにした。
(略)
オープンダイアローグの実践を通して感じるのは、既存の医療や支援の現場に、対話がもっとあったほうがいいということである。
「対等の関係性の中で話す」
「その人のいないところで、その人のことを話さない」
「全員の声が大切にされる」
「チームで対話する」など。
(略)
複数の第三者が、困難に直面した人たちの輪の中に入っていき、対話をする
対話の場を作ろうとするスタッフたちは、その場にいる全員に親身に寄り添いながら、中立の立場で、ときには自分の考えを話す。
1回の対話の時間は60分で、困り事があればすぐに対話の場が開かれ、必要なだけ対話を繰り返す。
対話は、そこに集まった人たちで、60分の対話の場をどのように使っていくかを話し合うことから始まる。🖊️
私はオープンダイアローグのルールの中の、
「その人のいないところで、その人のことを話さない」
というところに何度もたちどまりました。
なぜ「その人のいないところで、その人のことを話さない」ことが重要なのか、
そして、そのようなことが可能なのか、可能としたら、具体的にどのようなプロセスを経て、どのような効果が期待でき、どう回復に向かうことができるのか。
疑問が湧きます。
森川すいめい氏の「オープンダイアローグ私たちはこうしている」の本の中で、このルールについて詳しく書かれていました。
✒️オープンダイアローグ実践の土台部分です。最初にこのことを決められれば、対話実践をする覚悟が決まります。
誰でも自分のいないところで自分のことが話されて、自分についての解釈が勝手に膨らんでいったとしたら、本当に嫌なことだと思います。
そこで話された「私」というものは、実際の「私」とは全然違うものだからです。
私の友人が、ケロプダス病院のスタッフに「専門職の片方が休んだり辞めたりしたときには、別の担当者へ申し送りをしなければなりませんよね。そんなときはどうしていますか?」と質問しまし
た。スタッフはこう答えました。
「当人のいるところで、今までどんなことを聞いたのかを新しい担当者に話します」
当人が思っていたことと、スタップが聞いて認識していたことにはしばしば違いがあるものですが、その場で話すことができればその場で修正できるため、合理的でもあります。
「仲間や先輩に相談したり、意見が欲しいと思ったりしたときにはどうされるのでしょうか?」という質問に対しては、「仲間や先輩たちを招いて、その場で話をします」と答えていました。
相談記録を書くためのカルテも存在するのですが、あるスタッフはこう言います。
「カルテは国が決めていることだから記録を残さなければなりませんが、私は3行しか書きません。誰が参加して、どこで話したか、何が決まったか、これからの予定」
専門職の解釈をそこに書いても意味がないのと同時に、「その人が話したいことは、次回に会ったときは違うものですから」とも言っていました。
ちなみに、カルテの長さは人それぞれのようです。どんな方法が正しいかというよりは、どんな考えを持っているかが大切にされています。
「その人のいないところで専門家たちだけで話をすると、専門家たちの頭の中で解釈だけが進んでしまって、事実とは異なるものが進むだけ。有害でしかないのだよ」
「支援する人、支援される人」という関係があると、つい支援する人がより知っていて、より正しいとか、従わないのは悪いことだなどと思ってしまいがちです。たとえば、いくら自立を促しても思うとおりに動いてくれない。
そんなとき支援者は、
「自立する意思のない人だ」
「病識がない」
「自覚がない」
と感じることもしばしばだと思います。
しかしそれは単に、「支援者の思い描く自立に賛同してないだけ」かもしれません。場合によっては支援者が思い描く未来そのが、本人の思い描く自立を邪魔していることさえあります
支援の現場には選択肢が少ないため、「求めるものと提供されのとが異なればお店を変えればいいだけ」というようなカスタマーズチョイスが存在しにくいのもひとつの問題です。
需要と供給のバランスが悪いことから、結果的に支援者の考えが優先されやくなります。
支援側が思う良いゴールと、当人が望むゴールが異なるのは当然のことです。この違いがあるからこそ、対等の立場で話す「対話」が求められます🖋️
オープンダイアローグの力をまだまだ机上の上ですが知ることができました。
読めば読むほどもっと知りたくなりますし、希望が湧いてくることばかりです。
私の行なっているカウンセリングはカウンセリングルームの中で1対1の対話にとどまっていますが、
オープンダイアローグの力を知った今、私にできることから取り入れながら少しずつ始めてみたいと思います。
先日、カウンセリングに来てくださった解離性人格障害からくる鬱症状のZさんと、早速対話の場に他の人にも加わっていただくことを提案しました。
まずはZさんの良き理解者でありいつも味方でいてくれる3人の息子さんを交えて5人で対話をしてみようということになりました。
会社の経営のことで悩まれていたSさんには、同じような悩みを解決していかれた方に対話の場に入っていただくことを提案したところ快く了承を得たので、3人で対話をしました。
思いがけない新たな情報を得られ、Sさんは早速その情報をもとに行動を起こし始めました。
また、強迫観念に縛られて辛い思いをされてきたHさんと、何回か対話を重ねてきたある時、「人に迷惑をかけたくない。」と繰り返し語られ、私はこのことがHさんの症状に影響を与えているのではないかと思い、Hさんに「反対に人に迷惑をかける練習をしてみませんか?」と提案してみました。
Hさんは最初そんなことはとてもできない、と言っていましたが、練習相手が妻ならそれができるかも知れないとおっしゃるので、次のカウンセリングの時に奥様にも来ていただきましょう、ということになりました。
オープンダイアローグのエッセンスを取り入れていきたい思いが、私の中で大きくなってきたため以前の私には考えられなかった提案が浮かぶようになってきたのです。
これから「オープンダイアローグ」のことをもっと学びながら、カウンセリングとワークショップの場の中で少しずつ生かしていきたいと思います。
対話の力を信じて
分断と戦争の拡大が起きているこの時代に、平和な社会の実現に向けて、私がしたいと思ったことは「対話の力」の素晴らしさを自分自身が体現していくこと、「対話の力」の素晴らしさを実感する人が1人でも多くなっていくこと、現実社会の中で証明していくことだと思いました。
自己対話から、他者との対話へ、そしてオープンダイアローグへ。
状況に合わせて、縦横無尽にいろいろな対話が展開されるといいと思います。
対話は手段ではなく目的だという考え方は、私の「対話」に対する概念を覆しました。
対話が目的としたら、続いていくことが最も重要になります。
時にはつまらない対話になる時も、なんでもないような対話になる時もあるかもしれません。
しかし、最もな論理や正論ばかりが対話の場に持ち込まれたら、「あなたは正しい。だからあなたとの話はもうこれで終わりにしたい。」とそこで閉じてしまうでしょう。
そうならないようにいつでも1mmでも隙間が空いているような対話こそ、「対話は手段ではなく目的」と示唆している「対話」なのでしょう。
真の対話はずっと続いていく・・・その連続性こそ最も大切にしていきたいと思います。
この提言を読んでくださったあなたと一緒に、対話の力を信じて、分断の世界からつながる世界へ、自分の周りからじわじわと改革していくことを願って、私の提言を終えたいと思います。
長文をお読みいただきありがとうございました。
〈参考文献〉
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「新・ほんものの相談」 文芸社 青木羊耳 著
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「オープンダイアローグとは何か」 医学書院 斎藤環 著
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「スマフォはどこまで脳を壊すのか」 講談社 川島隆太 著
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「怒ろう」 ダイヤモンド社 パット・パルマー 著
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「感じるオープンダイアローグ」 講談社現代新書 森川すいめい 著
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「オープンダイアローグ 私たちはこうしている」 医学書院 森川すいめい著
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「まんが やってみたくなるオープンダイアローグ」 医学書院 解説 斎藤環 まんが 水谷緑
心理カウンセラーが社会に発信する幸福提言
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第3回 対話の力を信じて