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読書ノート42

「少女パレアナ」

エレナ・ポーター著



この本が大好きで何度も読んでしまいます。

読む毎、違う味わい方ができるのもこの本の魅力だと感じます。



この本の物語の主人公は「パレアナ」という名前の少女です。


パレアナは幼い頃に母親を亡くし、11歳の時に父親を亡くします。

その後、母親の妹(パレアナの叔母)に引き取られます。

物語はそこから始まります。


パレアナは父親と、よくゲームをして遊びました。

ゲームというのは「喜びを見つけるゲーム」です。


喜べる状況で喜ぶことは誰でもできます。


しかし、ゲームとは難しい障害や強い敵がある方が燃えるもの・・・。

父親は、「喜ぶことが難しければ難しいほど、このゲームはおもしろい。」

ということを、パレアナに体験を通して教えたのでした。


その父亡き後、パレアナを引き取ることになった叔母は、気難しい性質でした。


恋愛に失敗したことからずっと独身を貫き、誰にも心を開かず意固地になっていたのですが、

本当はとても優しく素敵な女性なのでした。


パレアナはその叔母さんの石のように頑なになった心を、次第にほぐしていきます。

それは「喜びを見つけるゲーム」を楽しみ、信じ、朗らかに生きていくパレアナでしかできないことでした。


パレアナの、「喜びを見つけるゲーム」をちょっと紹介しましょう。


11歳のパレアナを引き取りにいくのが嫌だった叔母は、お手伝いさんに約束の場所まで行かせます。


パレアナは、叔母との出会いを楽しみにしていましたが、迎えにきたのが違う人だと知ると、ちょっと黙ってしましますが、すぐ元気を取り戻しこう言います。


「あたしね、叔母さんが迎えにきてくださらなかったことがうれしいの。

だって、まだこのあと叔母さんに会う楽しみがあって、あなたとはもう会っているんですものね。」


「楽しみがまだ後から訪れる」ということ、

「あなたとの新しい出会いを今得られた」ということ、


こんな風に喜びを見つけだします。



このお手伝いさんも、次第にパレアナに感化されて「喜びを見つける」ことが上手くなります。


最初にパレアナから教えてもらった「喜び見つけ」のきっかけは、


「月曜日の朝が嫌いでたまらない・・」というネガティブな愚痴をパレアナにこぼした時でした。


するとパレアナはこう言います。


「まあ、とにかくナンシー(お手伝いさんの名前)や、1週間のどの日より月曜日の朝、喜んでいいと思うわ。

だって、次の月曜日が来るまでに、まる1週間あるんだもの」と。


ナンシーは、後にこのエピソードのことをこう振り返っています。


「とにかく、そのことを思い出す度に笑いたくなりますものね。それに笑うってことは役に立ちますの・・・たちますとも!」


こんな風に、どんな人の愚痴や文句もパレアナにかかれば、喜びに変換されてしまいます。

次第に人から人へ、口から口へ、この「喜び見つけ」は村中に伝わり、パレアナは意識していませんでしたが、真似をする人が増え、村は明るくなり、人々は幸せになっていきます。


しかしそんな中、パレアナ自身が交通事故に遭ってしまい歩けない体になります。

パレアナ本人にとって、「喜び見つけ」は難しくなります。


しかし、今度は精神的にパレアナに救われてきた人々が、反対にパレアナを励まそうとします。

その思いに触れたパレアナの心は直ちに明るさを取り戻します。


パレアナの明るさを取り戻す、この速さを思うとき、人間の日頃の「捉え方を変換する」練習が、いかにいざという時に力を発揮するものであるか、ということを強く感じました。




パレアナが叔母さんに送った手紙を読んで、涙が溢れてきました。


✒️あたし、歩けるようになりました。


今日は寝台から窓まですっかり歩きました。六歩です。


歩けるということは、なんてうれしいことでしょう。


(略)


どうしてみんなが泣いたのか、あたしにはわかりません。あたしは泣くどころか、歌いたいし、叫びたいし、バンザイを言いたいくらいでしたわ。


(略)


近いうちに帰れるそうです。


あたしここから家まで、ずうっと歩いていきたいくらいです。


もう一生涯、乗り物なんかほしいと思いません。


そのくらい歩くのがうれしいのです。


ああうれしい、なにもかもうれしくてたまりません。


ちょっとのあいだ、足をなくしたこともうれしいのです。


足がなくなってみなければ、歩ける足がですよ、足がどんなにありがたいかということはわかりませんもの。


明日は八歩歩きますの。


みなさんによろしく


愛のかたまりを皆さんへ、  パレアナより 🖊️



読書何度目?というほど繰り返し読んだこの本。


パレアナが、喜びに変換できるまでの時間のことを思いました。


いつもすぐに変換できるのではなく、その時その状況ごと、すぐできる場合と時間を要する場合とがある!との気づきが得られました。


長い期間が必要なとき、その間、心の中で何が起きているのだろうか。


目を閉じて思いを馳せてみました。


その時、浮かんできたものは、ある方の泣き顔でした。


その方は、自分と向き合って、


「何がしたいの?」

「どこへ行きたいと思っているの?」

「何を望んでいるの?」


とずっと自分の心に聞いてみたそうです。


楽しそうなものが色々浮かんでくるけれど、そのモノの輪郭は浮かんできても、中身は何もない・・・。


を繰り返していたそうです。


ある時、本当に自分が望んでいたものがわかったのですが、それはその人にとって、自分では持ちきれないほどの欲求でした。


「親に会いたい!」

「親と話がしたい!」


という思いだったのです。


その人もパレアナと同じく、若くして親を亡くしていました。


きっとこんなに明るくて朗らかなパレアナも、きっといっぱい涙を流してきたに違いありません。

またその人も誰にも言えない淋しさを胸に秘めながら、人前では明るく振る舞っているのかもしれません。


パレアナの中に「純粋さ」や「朗らかさ」や「お人よし」だけではなく、「強い意志」や「絶やさぬ努力」を見出すことができた今回の読書でした。

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