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読書ノート41-5

                                                           2024.11.21(木)

「代表的日本人」

内村鑑三 著


代表的日本人として著者が5人目に取り上げた人物は鎌倉時代の僧である「日蓮上人」です。


内村鑑三の文章によると、日蓮の生誕に際し、多くの不思議と奇瑞があったと伝えられている、とありました。

例えば、水晶のような泉が湧き出たとか、異常なほど大きな白蓮が時節はずれに開いて空中に芳香を放ったとか・・・。


また生まれた「時」に関しても、インドの釈迦(仏陀)の入滅後2171年、すなわち最初の「正法千年」が終わり、第二の「像法千年」も過ぎ、第三の最後の「末法千年」が到来を告げたばかりの年でありました・・・。などが書かれていました。


しかし、それらが真実でも、そうでなくても、どちらでもいいと思う自分がいます。


余談になりますが・・・、


今日の朝日新聞に、「闇バイト」についての記事が掲載されていました。


📰静岡大学教育学部の塩田真吾准教授(教育工学)は今年6月、高校生向けの対策教材を静岡県警と開発。


自分事と捉えてもらおうと「誰に」「なぜ」「何を」言われたら、闇バイトをやってもよいと思うか、場面を具体的に想像させる手法を取り入れた。


教材を使って授業を行った教職員によると、


「好きな人や先輩」から、


「困っている人を助けられる」や「犯罪じゃない」と言われ、


「荷物を届ける・受け取る」だけならやってしまうかも、とした生徒が多かったという。📰



ある人を尊敬するあまりに、その人の言うことを「鵜呑み」にしてしまう。

この「鵜呑み」が悩みや問題の発端になっていることが多い気がします。


どうしたら自分も含め、人々が「鵜呑み」をせず生きていけるのか・・・日々、考えさせられます。


一番見抜けなくなるのは、もしかしたら巧妙な言葉より、「好きな人や尊敬する人が言った言葉」かもしれない・・・と思いました。



偉人の場合、リスペクトするあまり後世の人が真実に装飾をしてしまう可能性があると思います。


それは「神格化」を助長させることに繋がり、「自分」と「尊敬する人」の間に「隔たり」をつくってしまうことになりかねません。


それはそれでいいのかもしれませんが・・・。


しかし、その「隔たり」に対して、全生涯をかけて、そして生命をかけて戦い続けた人が日蓮という人物だと思えます。


どんな人にも仏の心があるんだ、という経典のメッセージを受け取り、その真実を訴えたことで迫害に遭います。

(日蓮を支持する人が増え民衆パワーのムーブメントが起きていくことで、恐れを抱いた聖職者や権力者が立場や力にものを言わせて排除しようとする)

これは現代にも通じる構図だと思います。


どのような生まれだったのか、生まれた瞬間に起こった宇宙現象云々・・・より、その人が生きていく中で何を思い、何を為したのか、ということだけをただただ純粋に知りたいと思いました。


この本によれば、日蓮は十年の長期にわたって比叡山で貪るように仏教に関する経典を読み研鑽をしています。


そして研鑽の末、満を持して、32歳の時に公衆の面前で宣言をします。


「長年の間、万巻の経典の研究に日月を費やしてまいりました。


あらゆる宗派の経典に対する見解を読み聞きしてまいりました。」と始まります。


宣言の内容の趣旨は、


釈迦の残した真実を、現代の僧たちは歪めたり、閉じたり、軽視したりしているが、このようなことをした者は最後には滅びると経典には書いてある。


だから私はこれを直ちに正したい。そのための私は使者であります。」


といった内容でした。


日蓮と聞くと、攻撃的で排他的というイメージが先立つのですが、よくよく紐解くと真実を歪められた被害者が抵抗し反撃をしている姿に近いのではないか、と推察できます。


その意味において、この比叡山における研鑽の中身はとても気になります。


迫害に耐え、反撃をやめない、日蓮の生き様だけが、ドラマチックな印象として後世に言い伝えられていますが、その原動力は10年の深い真剣勝負の研鑽にあったのではないかと思えてくるのです。


人は、真実を知り、知ってしまったが故に突き動かされる。


その突き動かされるエネルギーが、他の誰かには沸き起こらずに、自分自身の心だけに、こんこんと泉のように湧き起こってしまったら?


そうなったら、私は悩むと思いました。


誰も頼む人がいない中で、


「真実を訴えたい!不正を正したい!」


VS


「出てこないで!出てきたら、おかしな人だと思われるし、いじめられるかもしれない」


この2つの思いが心を占領し、交錯してしまったら、強い葛藤が始まると思います。


日蓮も、きっと悩んだと思います。


しかし勇気を持って、たった1人から始めました。


この本によると、辻説法(道端で往来の人に対してする説法)は、この国で日蓮が最初だったとあります。


「日蓮は、首府の聴衆の嘲罵をあびながら、故郷の人々を前に明らかにした教えを、そのまま繰り返しました。

僧の身分にある者が、路傍で道を説くのは礼を欠くとの異議も出ました。これに対して日蓮は、はっきりと、『戦の間は立って食事をとるではないか』と応じました。


執権の崇拝する信仰を悪くいうのはよろしくないとの非難に対しては、『僧は仏の使いである。世と人々を恐れては使命は果たしえない』と明言しました。


他の教法がすべて誤りということはありえない、との当然生じる疑問に対し、日蓮の説明は簡単でした。『足場は、寺が建つまでの間に使われるだけである』。


疑問に対しての答えは、常に的を得ており、簡潔明瞭、たとえ話の引き出しが豊富・・・ということが他の文面からもうかがえました。


日蓮の真実を訴え続ける生き方は、この世を去るまで貫かれています。



内村鑑三という人はキリスト教徒でありながら、宗派を超えて、人物だけを、生き方だけを、「正視眼」でみようとしています。

そこに、純粋さ、強さ、寛容さ、決めつけや思い込みを外せる自由さが伝わってきます。


そして彼が代表的日本人としてチョイスした日本人5人・・・は、時代や国や文化を超えて、人間にメッセージを送り続けている・・・と思いました。


リンカーンが残した言葉。


「すべての人びとをしばらくの間、だますことや、少数の人びとをいつまでもだますことはできても、

すべての人びとをいつまでもだますことはできない。」


本を閉じて5人の生き方を振り返り心の中で味わってみました。

その偉大さと真価は、いつまでも多くの人の心の中で輝いていくと思いました。

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