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ブルーフォートレス vol.2

  • アディムクティ
  • 4 日前
  • 読了時間: 14分

更新日:2 日前

                                                             2025.11.3(月)


先日、第二回目のブルーフォートレス(カウンセリング事例検討会)がありました。


事例報告者は成田けんやさんで、テーマは「アダルト・チャイルド」でした。


交流分析の理論を、成田さんご自身の生きづらさを乗り越えていくためのものとして、そしてフリースクールや塾の現場でティーンエイジャーと関わる実践を通して、血肉化されたものだと思いました。


人として言ってはいけない言葉を、ティーンエイジャーからストレートに浴びることがあるそうです。

しかし、そんな時はしっかり誠実に叱るように心がけているようです。


「自分の気分で叱ることはしたくない。」


それは成田さん自身が、親からの叱られ方を反面教師として、自身に課した決意であり答えでもあるようです。


ひどい言葉を発する子どもに対して、大人が「子どもの言うことだから仕方がない」と片付けてしまえば、それは子どもの本来持っている力を矮小化してしまうことに通じる・・・と思うから、成田さんは諦めない。


辛い家庭環境に育ち、学生時代にいじめを受けた成田さんにとって、人を「叱る」とはどういうことなのか、改めて理解し直す必要を感じています。

それを実践していくのは、決して簡単ではないことを承知の上で、子どもと真剣に話し合う気持ちを持ち続けています。


また、子どものネガティブな反応を見ている時、ある視点や想像を持っているそうです。

この子にこのような態度をとらせてしまった背景に何があるのだろうかという視点(人を問題にするのではなく、問題を問題にする家族療法的な視点)であり、交流分析を学んできたからこそ現象の奥にあるものを想像できるようになってきたと言います。


私がとても心に残ったことは、子どもから向けられた暴言や嫌味に対し、成田さんご自身が怒ったり、ムカついたり、傷ついたりしている自分の声もちゃんと聴いている、ということでした。


子どものために、支援する側がただただ我慢をするのではなく、子どもの言葉によってわき起こってくる自分の声を自分で受け止めることも大切なことだという在り方に、私は共感しました。


成田さん曰く、「頭がピキってくることがある!注意するのには時間も必要。」だと。

(ピキっていう表現にちょっと笑えました😂)

「時間が必要」というのには、どうしたら相手と自分を尊重したアサーティブな伝え方ができるのかを模索しているからでしょう。


また成田さんは、「支援者であると同時に当事者でもある」と言う信条をお持ちでした。


支援者側だけの意識でいると、例えば「励ます」を当たり前のようにしてしまう。


しかし、「励ます」と言う言動の中には「今のままのあなたではダメなんだ」と言うメッセージも同時に伝えてしまいかねない。

そうなる「おそれ」を人一倍問題視している成田さん。

それは支援者であると同時に傷つき体験を経験した当事者でもあるからだと言います。


成田さんは、落ち込むことを許してもらえない社会を「ポジティブウォッシュ」(本質的な問題やネガティブな側面を隠すため、あるいは世間の目を逸らすために、意図的にポジティブな情報やメッセージを過度に発信する行為)と言っていますが、それとは反対に「無力を認める」ことが今の社会に必要な側面なのではないか?とのお考えを持っていました。


これは私がとても関心を持っている「ネガティブ・ケイパビリティ」(ネガティブを持ちこたえる力・早急に答えを出そうとせずにモヤモヤを抱えていく力)にも通じていると、嬉しく心強く感じました。


成田さんは、このように繊細で微妙な感覚を持っているため、できるだけ相手の気持ちをそのまま受け入れたい!

支援者の理想から、相手の今の状態を差し引いているような励まし方、関わり方、伝え方には気をつけたい・・・と心がけているようでした。


これも、問題に苦しんでいる状況が問題であって、あなたという人格が悪いわけではない、という考え方に、基づいていると思いました。


さて、成田さんの今回の事例検討会でのお話の目的は、


「アダルトチャイルドの内的世界観を理解し、援助者の『たたずまい』を考えたい」


と言うものでした。

(※アダルトチャイルドとは、子ども時代に機能不全家庭で育ち、その家庭内の役割や心の傷が大人になっても影響し、生きづらさを抱えていると本人が感じている状態)


機能不全というのは、例えば親が親の役割をしていないとか、家族同士が過剰に依存し合っていたりとか、支配と被支配などの関係性になっているとか・・・家族関係が不健全な状態のことだと私は認識していますが、どんな家庭にも多かれ少なかれそれはあるのではないかと思います。


ちなみに私の育った家庭にも機能不全の時期がありました。


私の父は定年退職の日を待たずして仕事を辞めてしまいました。

母は経済的な不安からくる愚痴や文句を、父ではなく長男(私の兄)にこぼしていました。

長男は次第に父親に対し厳しい眼差しを向けるようになり、家の中の空気がピリピリとしていた時期がありました。


その空気はとても怖く、私の心は不安とおそれでいっぱいで、家の中にいたくないほどでした。

心細さを誰とも分かち合えず、一人でじっと耐えていました。


また父に代わって母は仕事を増やし、忙しくなり、小学生の私が家族の夕食を作りました。

仕事を終えて遅く帰ってきた母を待ち、ご飯を温めて食卓に出しました。

母は「美味しい」と喜びながら食事をし、会社であったことの愚痴を私にこぼしていました。

私はそれを延々と聞いていました。


おそらく、その時の私の心の中は、母に当てにされていることを嬉しいと思う反面、もう自分の話は誰にも聞いてもらえないんだ・・・という淋しさも芽生え始めていたと思います。


疲れて起きられない母を気遣い、朝早く起き、兄のお弁当をつくり持たせることも勝手に引き受けていました。

家族に「美味しい」と言われるたびに自信がつき、明日も家族を喜ばしたいと思う気持ちが、強いモチベーションとなり毎日続けました。

母が食事をしながら、私に愚痴を言ったり助言を求めたりするので、私は次第に自分が家族の中で重要な役割を担っていると思っていました。


このように父の役割が弱くなり、長男の存在感が強くなり、母と娘の役割が逆転していたような時期が1年ほど続きました。


ある日、何かでイライラした母が、私をいきなり子ども扱いし命令口調で威張りはじめました。

私はその言動にキレて爆発しました。

自分がどうしてこんなにキレてしまうのか自分でもわからないほどの、怒りの暴走が起きました。


今までの私に対する、対等な大人としての扱い、むしろ頼り甘えてきたような接し方は嘘だったのか、

私が忙しい母に代わってやってきたことは何だったのか、

夫に対する不満を子どもにぶつけてきた母の言動によって、どれだけ家族の仲がおかしくなり、どれだけ私が不安と心細さに耐えてきたのか・・・。

言語化こそできませんでしたが、私は今までの我慢が爆発したのだと思います。


その抵抗は「死んでも一歩も退かない」というほどの強さだったので、私と母の大喧嘩を兄達も父も誰も止められませんでした。その時のどうすることもできなかった反発心を今でもはっきり思い出すことができます。


(ちなみに何年もたった今は、母との関係はとてもよく、お互いを助けたり遊んだりしています)


このことが私という人間性を形成する中で、そして他者との関係を構築する中で、影響が全くなかったとは言い切れないように思います。


このように、どんな人も多かれ少なかれ、機能不全時期を通っているのではないでしょうか。


もし、「機能不全じゃない家庭」があるとしたら、それは家族の誰かに困難が訪れた際に、みんなで気持ちを話し合ったり、お互いの感情を認め合える関係性が作られている柔軟性のある状態をいうのではないか、との成田さんの見解には説得力がありました。


決して家庭内に問題や困難がない状態が「機能健全家庭」というわけではない。

むしろ問題や困難が降りかかってきた時こそ、各々の役割に固執せず、どこまでも柔軟に対応して助け合える家族ということなのでしょう。


成田さんは、まず「内的世界観」を理解するための分析提供や情報の共有をしてくださいました。


・アダルトチャイルドとは何か

・交流分析・エコグラムの説明

・機能不全家庭で、私は何を学んだか

・恥・怒り・恨み・未完の思い

・FC志向とAC志向(変容を考える)

・第一回目の報告(私のカウンセリング事例)に対する分析


ざっとこのような流れでお話は進んでいきました。


専門用語も多々出てきて難しいと感じる場面もありましたが、成田さんが最初に「目的」を提示してくださったおかげで、あまり細部にはこだわらずに次へ次へと「聞きたい、知りたい、理解したい」という思いでお話を聞くことができたと思います。


やはり最初に「目的」を伝えることは大事なことなんですね🤔


機能不全家族の中で「子ども」時代を過ごすとき、その子どもが意識・無意識関係なく、概ね5つの役割を担うと言う有名な分類を紹介。



5つの分類とは何か。


・ヒーロー(家の誇り)

・スケープゴート(いけにえ)

・ロストワン(いない子)

・マスコット(道化師)

・ケアテイカー(世話役)


この一つ一つに説明があり、参加者からの質問も多くありました。


特にスケープゴートに関しては他の4つと違う側面を感じましたが、説明を伺い納得できました。


成田さんの説明では、「スケープゴート」は家族の問題役として引き受けており、他の4種類とは反対の行動をとっている。しかしそうすることで家族の絆が保たれるのであれば役に立っていると言えなくもない。

他の分類と比較したとき、反対とも言えるが、本質的には表裏一体・紙一重とも言える。


どんな役割を演じていても、それは子どもの心の傷から起こっている状態であり、子ども自身が生きる術として身につけたものであり、家族内の平穏を保ためにその役をあえて買って出てバランスを取ったものだ、というような説明がありました。


次に「交流分析」に入り、エリック・バーン精神科医の分析した3つの私の自我状態


(P)・・・Parentペアレント:いつの間にか自分の価値観や思考の一部としてインストールした部分

(A)・・・Adultアダルト:今とここ。物事を冷静に判断したりとるべき行動を考えることができる

(C)・・・Childチャイルド:子どもが感じた気持ちや欲求に応じて反応して身につけた振る舞い


の、それぞれの説明と、この分析を活用して人の心の状態をシンプルに考えていくという手法について解説していただきました。


生まれたばかり→児童期(しつけの開始)→思春期以降の3段階の交流分析を通じて、不適切養育がもたらすものをわかりやすく解説。


ここからの展開が成田さんの真骨頂という感じが伝わり、ここまでの解説は本番前のリハーサルのようなものだと思いました。


親の影響により心に決めた私の人生観・・・が成り立つまでの過程が、成田さんの解説によって無理なく理解することができました。


不適切養育によって、子どもの中に、キツすぎる要求が常に存在してしまうと言います。


・存在するな

・お前であるな

・子どもであるな

・成長するな

・成功するな

・重要であるな

・・・・・・・

などの、矛盾と理不尽に満ちた要求のワードが並べられました。


今、「矛盾と理不尽」と書きましたが、アダルトチルドレンにとってはこれが「普通」に近い感覚だということです。

これは専門家の研究によって、今では24個ほどあると言われているそうです。


「キツすぎる要求」を理解するのと同時に、私の胸がギューッと締め付けられました。

この苦しい感覚はどこからくるのだろう・・・・?


きっと私にもその要求を、知らぬ間に取り込んでしまった経験があると思いました。

親のせいというだけではなく・・・。


思いだせるものとして、あるボランティア団体のリーダーに特別に可愛がられていた時の私の気持ちが思い出されてきました。


私も最初はそのリーダーをとても尊敬をしていたので、期待に応えたい気持ちで頑張っていました。


しかし同時に襲ってくる「怖さ」


その人に嫌われてしまったらどうしよう、その人に見限られてしまったらどうしよう、というおそれからくるものだったと思います。


見限られたら、私がその団体の中で生きていけなくなると思い込んでいました。

(存在の安全性が脅かされているような状態)


どんどん視野は狭くなり、自由で伸び伸びしていた自分を取り戻せなくなり、そして心も体も疲弊していきました。


アダルトチルドレンは、この感覚が四六時中続いているような感じだとしたら、その延長線上に精神疾患や依存症、自傷行為になる人もあるということでしょう。


これは経験していない人には、実際には理解に及ばないものだと思います。


当時の私は、頑張っても頑張っても、結果を出しても出しても、心は嬉しさを実感することがありませんでした。


この時の感覚こそ、「お前であるな」「成功するな」に近いものだったと思います。


その人を喜ばせるために自分を我慢させ犠牲となり、その人に対し意見を言えなくなりました。

求められて頑張りすぎてしまうのですが、自分の力が彼女を超えるようなことだけは許されないような、そんなジリジリとした感覚を思い出しました。


これも今振り返れば、その人のせいではなく、私が私にしてしまった過ちだと思っています。

もっとその時々の自分の気持ちを大切にしていたら、早い段階で生き方を変えられたでしょう。


その人から距離を取ることもできたでしょうし、静かに立ち去ることもできたでしょう。

はっきり自分の意思を伝えて真正面から口論をしても良かったかもしれない・・・とも今は思います。


そんな自分のことも「あの時はそうせざるを得なかった。この経験で気づきを得られた。だから今の自分があるんだ」と今は思えるようになりました。


成田さんの真骨頂ともいうべき中身の詰まった講話の最後は、1回目の事例検討会で報告をした私のカウンセリングのやり取りについて、成田さんの見立てから交流分析を示してくださいました。


これは、私がクライアントさんに、もっと自分の内面に入っていただきたいが、それがなかなかできず、外側の話に終始してしまう理由がわからない、に対する交流分析でした。


ざっくり言ってしまうと、クライアントさんの心の中に「今、自分が何を感じているのかを感じること自体が難しくなってしまうような経験を、無意識のうちに体験せざるを得なかったのではないか」という見立てでした。


これを示していただいた時、ピンとくるものがありました。

クライアントさんが、子ども時代にどのようなご両親からの関わられ方があったのかがご本人から語られたからです。

これは、事例を提示した後のカウンセリングで打ち明けられたことでした。


成田さんの交流分析がまるで預言でもあったかのようにピタリと符号したときには、エリックバーン氏が1957年に提唱してから60年近く経っているのに、今もなお「交流分析」は多くの心理師に支持され、生き生きと受け継がれているという理由を垣間見た思いがしました。


成田さんの講話を終えた後で、二人で雑談をしました。


その際に、「分析」をしている時に「共感」はできますか?と尋ねてみました。


「分析」は、時として目の前の人の気持ちや、私の気持ちに「共感」する力を妨げる壁として立ちはだかってくるものでは?と思ってしまい、「分析」を活用することに対し、ためらいがちな自分がいます。


その質問に対して、成田さんは成田さんのイメージで話してくださいました。


成田さんのイメージでは、「共感」と「分析」を人で例えると、スタートラインからゴールラインまでの距離を2人で常に並んで走っているイメージだと言います。


各々は前を見て走るが、相手も見えている状態だと・・・。


またどうしても言語というものを介して対話する以上、アダンルトチルドレンをはじめ、その心模様を丁寧に捉えようとする気持ちはカウンセラーとしての佇まいの一つなのではないか、というお考えをお持ちでした。


最後に、これだけの分析力がありながら、分析や型を常に批判していきたい自分もある・・・という思いを話してくださいました。


成田さんがこれまで関わってきた人達の声の中には、「カウンセラーに対して感じる違和感」として、「まるで型にはめられているように感じること」があるそうです。


「カウンセラーはこういう方向に持っていきたいんだな・・・」

「こういう態度をさせたいんだな・・・」


相談者が、こう見抜いた瞬間、カウンセラーに嫌気を感じて離れていく人もいるし、カウンセラーに好かれようとして好かれるような言動をしてしまう人もいる、という成田さんの率直なご意見がありました。


私はそれを聴いて、分析や勉強や手法も大事だが、それ以上に「今」と「ここ」に居続けるという原点にもう一度立ち返ろうと決意できました。


さも、あなたが感じているかの如く、私も感じている。

しかし同時に、私が感じていることもまた、私は感じている・・・。


この在り方こそ最も大切なことだと再確認することができました。


成田さん、事例報告をまとめて発表してくださりありがとうございました。

 
 
 

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