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カウンセリングルーム_タイトル

心理カウンセラーが社会に発信する幸福提言

第2回 自分自身に生きるとは

2024.1.26(金)

心理カウンセラー 萩原法代

はじめに

この1年間、カウンセリングルームにたくさんの方が来てくださいました。

 

どの人も自分の人生を真剣に生きているからこそ壁にぶつかり行き詰まったということ、自分自身で何とかしたいと思って、カウンセリングを受ける選択をしたということが伝わってきました。

 

そう考えた時、カウンセリングを受けようと行動を起こす方々は、決して弱い人ではなく、むしろ人生を真剣に生きていて前向きな人だと率直に思いました。

 

そのことをまず冒頭に述べさせていただきます。

 

さて、今年の幸福提言のテーマを「自分自身に生きるとは」にしました。

その経緯を最初に述べたいと思います。

 

相談者のお話を聴いていくと、今苦しい、辛い、行き詰まってしまった、自分はこの悩みをどうやって解決していったらいいのか、乗り越えていったらいいのか、という声が聞かれます。

 

2つ(またはそれ以上)の感情が違う方向に向いてしまい、どうしたらよいかと葛藤し悶々としており、心の奥から沸き起こってくるものと、どうするべきかを考えるものとが、違う方向を向いていることが多いと感じます。

 

この葛藤や衝突、不一致感からくる迷い・・・これらから自分を解き放していける方法はあるのでしょうか。

この方法を私は探していきました。

 

頭で考えることは、生まれてから両親はじめ多くの環境によって形成されたものかもしれません。

同じような躾や教育を受けた者同士、同じような経験をした者同士は、ある程度似たような考え方をします。

 

しかし、感情の方は躾や教育や経験とは関係なく勝手に沸き起こってくる性質があるような気がします。

そうであるなら、感情というものをよく知ることが、苦しさや迷いから自己を解放させるヒントに、そして考え方との調和をもたらしていく鍵になるのかもしれないと思いました。

 

ある時私はふと、感情というものには謎が多いことに気がつきました。

同じものを見たり聞いたりしても感じ方は十人十色、千差万別です。

 

また一人一人が違う感情や感覚を持っているという事実に目を向けた時、友人とも家族とも違う、宇宙でたった一つの自分、個性的で素晴らしい本当の自分自身にたどり着くための羅針盤、ナビゲーションの役割も「感情」にはあるのではないかと思うようになりました。

今年出会った「引き寄せの法則」という本が、この気づきを大いにもたらしてくれました。

 

自分の中から沸き起こってくる感情ーーーこれを大切にしていくことで真の自分自身に目覚めることができたら、誰もがオンリーワンの誇りと自信を獲得でき、自立した生き方ができるのではないかと考えるようになりました。

 

そしてこの1年間で導き出せたことを元に、自分自身に生きるとは?を自分なりに考えました。そしてそれを提言としてまとめ発信したいと思います。

フォーカシングとの出会い

感情の追跡をしようと考えた私は、自分自身の内面で実験しようと思いました。

検証するための一人時間を、意図的に一日の中に確保することから始めてみました。

 

静かな一人時間に「今、私はどんな気持ち?どんな気分?」と。

 

しかし、感情の中に居続けることはとても難しい挑戦でした。

感情の声を聴こうといくら集中しても、思考の声にかき消され、いつの間にかすり替わってしまいます。

 

例えば、不安な気持ちが起きているとします。

その声を聞いているうちに思考が次々と動き出し、「じゃあ、こうしてみよう!」という行動への呼びかけが始まってしまいます。これはこれでいいと思いますし、思考や理性や行動は重要なはずです。

しかし、私は思考や理性に踏み倒されてしまう「感情」に力と意味があるような気がしてこの実験を始めたのですから、思考の力にだけ自分を委ねることはしたくありません。

 

そんな時、以前読んだ本のことを思い出しました。

明治大学教授で心理学者の諸富祥彦氏が書いた「孤独であるためのレッスン」という本です。

 

この本の最後の方に、フォーカシング(心の声を聞く・心の声を待つ)のやり方が書かれているのです。

 

感情と思考の区別がつかず混沌としてしまった私は、一旦、自己流を離れて本に書かれている通りにやってみようと思いました。

 

フォーカシングについて述べる前に、まずこの本で紹介されている「フォーカシング」について前置きします。

 

フォーカシングは、来談者中心療法の創始者であるカール・ロジャーズの共同研究者の一人であったユージン・ジェンドリンという人が開発した方法で、日本で最も人気があり、やさしく繊細なセルフヘルプの方法の一つだそうです。

 

著書の中の文章を抜粋します。

 

✒️私たちの人生にとって大事なことを伝えてくれる“うちなる声”は、“悲しさ”や“怒り”といったハッキリした感情としてよりも、まだそのような言葉やイメージになる以前の“あいまいな何か”“漠然とした違和感”などとして立ち現れることが多いものです。

 

そこにたしかに“それ”があること、そして“なぜだかよくわからないけれど、そこに意味がありそうな感じ”がしていて、その“感じ”が“自分に注意や関心を向けてほしがっている”ような気がするのはわかる。

 

けれども、まだ具体的なかたちはとっていないーーーそのような“なぜか、気になる感じ”(フォーカシングではこれをフェルト・センス【感じられた意味感覚】と呼びます)として、私たちの前に現れることが多いのです。

 

〜省略〜

 

私たちが“自分の心との対話”をおこなっていくときに、もう一つ、大切なことは、自分の心の全体を大切にする、ということです。

 

ある心の部分は「それはだめ、こうしなくてはいけない」と自分にも他人にも厳しく要求を発していきますし、別の部分は「こうしたい、ああしたい」と自由にのびのびとした心の声を発してくるでしょう。さらに別の部分では「どうしたらいいんだろう」と迷い、他の人に依存したい声を発してくるかもしれません。

 

こうしたさまざまな心の部分、そのどの声をも、いずれも固有の大切な価値を持つものとして認め、そこから新たな“第三の声”が聞こえてくるのを待っている。🖊️

 

とあります。

この説明を読んだとき、何と意義深い自分との向き合い方なのだろうか、と思いました。

 

心から沸き起こってくる感情や、感情と言えるかわからない曖昧なものまでも、あたかも生き物のように全て認めて味わっていく、そして一つの強く突出してくる感情=(イコール)私、と同一化することをやめ、感情全体に注意を向けていくところ、また心の声を聴く、に終わらず、心の声を待つという側面にも大いに興味が湧きました。

フォーカシングを100日続けて

そこで私は100日間、この本に書かれている通りにフォーカシングのエクササイズを続けてみたのです。

 

このエクササイズは①〜⑩まで順番に進めていくような流れになっています。

 

ここでは内容の紹介を割愛いたしますが、私が注目したところは①の、「からだの感じに注意を向けていきましょう。」という始まり方です。

 

①では、からだの外側の部分一つ一つに注意を向けるようにし、次にからだの中心部、最後にからだ全体という順番で、「何か気になる感じはないかな?」と問いかけていきます。

 

からだに注意を向けると、指の先が冷えていたり、胃のもたれが感じられたり、肩甲骨に痛みが感じられたり、皮膚のかゆみが感じられたり、その日によって気になるからだの声は違いました。

また、なんとなく全体がゾワゾワしている時や、全体が重く感じる時もありました。

 

そして丁寧にこの問いかけをした時に、ふと気がついたことは、不思議と「思考」を鎮めることができるということでした。

 

思考を鎮めて感覚や感情の部屋の中に一人で入って、椅子に座って部屋をずっと眺める、部屋の中に流れてくる音楽を聴いている・・・まるでそんな雰囲気です。

そして、その時間を少しずつ長く持てるようになったのです。

 

この変化には驚きました。

 

例え不安になっていても、不安という部屋の中にずっといることが怖くなくなってきたのです。

それよりも不安の中にいると怖さが少しずつ消え去り、消え去ると同時に他の痛みが顔を出してくることもありました。

 

悲しさが現れてきた時には、目から涙が出てきました。

そのままワッと泣き出すこともあれば、ツーッと一筋涙がこぼれ落ちて、あとは嘘のようにスッキリすることもありました。

 

この不思議な体験がどんどん楽しくなり、今日はどんな部屋に入れるのだろうか、どんな感覚が私に注意を引きたがってくるだろうか、と好奇心が湧くようになりました。

自分の心の領域よりも楽しい世界などどこにもないと感じるほどです。

0円で宇宙旅行をしているような初めての気分なのです。

 

この日々の中で変化してきたことがあります。

それは、一人でいても楽しい、と思えるようになったことです。

 

人に気を使ったり傷つくようなことを言われたりして嫌な時も、反対に何気ない言葉で人を傷つけてしまい自分のことを情けないと感じた時も、「後で一人時間をとって自分で自分を癒そう」と積極的に思えるようになりました。

人といて楽しい時間を過ごした日は、誰かといても楽しいし、一人でいても楽しい、という感じになりました。

 

いずれにせよ、どのような日でも、24時間が自分の時間だと感じられるように変化してきました。

 

またフォーカシングで自分の心の奥深さや幅広さを発見できたことによって、目の前にいる人に対する見方にも変化が起きました。

 

例えば、怒っている人に出会うと、裏側の泣いている顔も同時に感じられたり、

威張っている人に出会うと、裏側の恐れに怯えている顔も同時に感じられたり、

喜んでいる人に出会うと、それまでの労苦も見出せて、嬉しいだけではなく感動している自分を発見できたりしました。

 

これらの体験によって、私が私の心をどのように感じてどこまで共感できるか、それが目の前の人との向き合い方の豊さや深さと関連してくることもわかってきました。

 

他人の心は分からなくても、自分の心は向き合えば向き合うほど明晰化されわかってきます。

相手の気持ちを理解する道はここにあったのか!という気づきが深まりました。

心の声を聴く、待つ

フォーカシングの積み重ねは、突出した一つの感情だけではなく、もっと複雑なものや曖昧なものも発見できました。

 

例えば何か心の奥で軋(きし)むものが感じられても、それが一体何を訴えている軋みなのかわからないという時もありました。

そんな時は、「軋み」に、そのままそこにいてもらい、「明日も来るね。」と優しくいって、フォーカシングを終えるというようにしていきました。(エクササイズの説明にそのように書いてあるからです)

 

私にはこのような曖昧な感覚をどう扱うのか分かりませんでしたが、諸富氏の別の著書「トランスパーソナル心理学」は大変詳細な説明があり、参考にすることができたのです。

 

この本の中で、ある女性のフォーカシングによる気づきを取り上げています。

その体験のエッセンスの紹介の後で、次のように書かれていました。

 

✒️彼女は最初から、友だちについて“何か、おかしい”という漠然とした違和感をたしかに感じてはいました。しかしそれは、“身体とも心ともつかない心身未分化なところのあいまいな感じ”でしかありません。

そのため彼女は、“そんなこと、大したことじゃない”と自分に言い聞かせて、それを無視しようとしていたのです。

 

これがたいていの場合、私たちが日常生活でとっている態度。自分の中の漠然とした違和感に対して、「小さいことにくよくよするな」と自分で“言い聞かせる”のです。“うちなる自分のかすかな声”が聞こえてくるのを辛抱強く待つことが、人生を大切に生きていく上で何より必要なことだとフォーカシングでは考えるのです。

 

このようなフォーカシングの態度は、自分に何かを“言い聞かせる”式の能動的な心理療法、たとえば認知療法や催眠を使ったイメージ療法などとは、ちょうど逆さ向きになっています。

 

フォーカシング流の自分とのつき合い方は、自分で自分に何かを言い聞かせる能動的な態度ではなく、向こうからやってくるものの、“言い分”に心を開き、それを受け止めていく受動的な態度。“うちなる自分”のさまざまな部分はそれぞれに“言い分”があり、それは、まさにそれそのものが生きており、あたかもそれ自体で意志と欲求を持った生き物のよう。

 

それは、私たち自身の意志を超えて人生の大切なメッセージを運んできてくれる何か。

フォーカシングは、この“何か”に心を開き、それが届けてくれるものをしっかり受け取っていくという、生きる姿勢のことなのです。🖊️

 

私には、心の声を聴くということはできても、自分自身の意志を超えて人生の大切なメッセージを運んできてくれるものを待つ、ということを意識したことがありませんでした。

 

もしかしたら無意識にそれをしていることはあったかもしれません。

いずれにしてもこのエクササイズをやり続ける中で「待つ」という姿勢が新しく身についたと思いました。

 

フォーカシングを続けて、自分の心の声を聴くだけにとどまらず、心の声を待つ、ということに挑戦し続けていた時、こんなことがありました。

 

2023年の夏に大型台風が日本列島に上陸しました。

あまりにも猛威をふるっていたので、ニュースを何回も見ました。

 

すると私の住んでいる町の近くで竜巻が発生していることがわかり、視聴者がスマフォで撮影した竜巻の映像動画が何度もテレビ画面に映りました。

 

横転した車、飛び散ったガラスの破片・・・それを観て恐ろしくなりました。

 

以前の私だったら、怖さと見たさでニュースを何度も観てしまい、不安はやがて「どうしたらいいんだろう。」という焦りに変わり、あれこれ行動を繰り返してしまったと思います。

 

しかしフォーカシングをして自分の心の中を覗いてみました。

 

すると、「怖いな・・・緊張するな・・・不安だな・・・。」

という声を聴いた後、「他にも何かないかな?」と待ってみたところ、「嫌だよ。」という小さな声が聞こえてきました。

 

その声に、「嫌なんだね。そうか、そうなんだ・・・。」とそっと注意を向けていくと、その声の根っこにあるものがわかってきました。

 

「どうして?なぜ?何度も何度も流すの?」という、報道に対して怒りがあることがわかりました。

これは今までもあったかもしれませんが、小さな声だったため、思考にかき消されていたのかもしれません。

 

その後、台風が自分の住む地域からコースを外れ、ちょっと緊張が取れてホッとする時間が訪れました。

 

その時もテレビをつけると、同じ竜巻の映像が何度も繰り返されていました。

その時、「ホッとしたいのに、どうしてホッとすることを許可しないような報道の仕方なの?」

という感情が心から沸き起こっていました。

 

思考の中には「あなたが安心安全でも、大変な地域があるっていうことを忘れちゃだめ!ホッとなんかしてちゃだめ!竜巻の怖さを観たでしょう!」というものがどこかにあり、感情と思考は完全に反対方向を向いていました。

 

ニュースを発信する人や番組は何も悪くありません。報道はその使命を果たしているだけです。

ただただ勝手に私の頭の中に、「自分だけ安心安全でいていいの?」という思考がいるのです。

それはとても正しそうです。感情の全てを踏み倒していく勢いなのです。

 

この時私は、感情と思考が反対方向を向いてしまった今こそ丁寧にフォーカシングをしてみよう、何か変化が起きるかもしれないし、私は私の内面で検証実験している最中だった!と思い出し、テキストの通りに①〜⑩の順番でフォーカシングをしてみました。

 

①は、「からだの感じに注意を向けてみましょう。」です。

からだは、緊張が取れて緩んでいました。

そして動き出したくなっていました。

 

フォーカシングを終えた私は、動いてみようと思い庭に出てみました。

すると、最近では見たことのない無数のトンボが柿の木の上を、ぶつかりそうになるくらいの勢いで旋回していたのです。

 

それを眺めながら、台風の大きなエネルギーを利用して移動しながら飛び、群れで生きているたくましい生命たちと出会えた気分になり、嬉しくなっている自分がいました。

決して台風を脅威に感じている生命だけで宇宙の森羅万象が成り立っているわけではない、という真実を知った瞬間でした。

 

フォーカシングをしていなかった以前の自分だったら、テレビの前に釘付けとなり、報道で観たこと聞いたことを全て鵜呑みにして対策に動く自分だったと思います。

 

しかし、フォーカシングを実践していた私の行動は違っていました。

そしてたくましいトンボの生命力と出会えて、自分の中の生命力も湧き起こりました。

 

その時、私は思考中心の生き方よりも、感覚を大事にする生き方の方が自分らしく生きられるだけではなく、自分を取り巻く森羅万象の事象と調和する「野生の勘」を取り戻せるのではないかと思えてきたのです。

細胞の私と、意識の私

心の声を待つ、というエクササイズを毎日毎日実践していきました。

ある時、心の奥から声を発しているのは一体何なのか?誰なのか?自分なのか?という疑問が湧いてきました。

もちろん自分の心から湧いているということは自分の声に違いありません。

しかし、思ってもみないイメージが湧いてきて、次の日にそのイメージの意味するものと思われるような現実に出会った時、目に見えるものだけでは説明がつかない「何か」を感じました。

 

ある時フォーカシングをしていたら、親しい人と音楽を一緒に聴いているイメージが浮かんできました。

その親しい人は、親しいという感覚だけはあるのですが、誰かはわかりませんでした。

 

その次の日、思いがけない友人が「古いオーディオがあって・・・壊れて音が出なくなって・・・電気屋さんに2日がかりで見てもらったけれど修理できないと言われて、どこかに売ろうと思うんだけど・・・。」と私に言ってきたのです。

 

私は、修理の得意な親戚に電話して、彼女の家に一緒にいってもらいました。

すると親戚のおじさんは「こんなオーディオ、なかなかない値打ち物だよ。」と言いながら、すぐに音が出るように修理してしまいました。接続していたターンテーブルもちゃんと動きはじめ、乗せてあった古いレコードが回りはじめ、豊かな音を奏でました。

 

その2、3日後には、別の友人が、「私の主人が、のりちゃん(私の呼び名)にいい音で音楽を聴かせたいと言っているよ。」と言ってきました。

彼女のご主人は音楽好きで無類のこだわり派で、オーディオルームを作ってしまうほどでした。

 

立て続けにそんな機会があり、私は驚いてしまいました。

その頃からシンクロニシティ(共時性)が頻繁に身辺で起こっていきました。

大袈裟かもしれませんが自分の意識が他人の意識と繋がっているような気がしました。

 

もしそうなら、どこからどこまでが自分で、どこから先が自分ではない世界なのか、よくわからなくなります。

もちろん細胞の私は、他人と別個に独立しています。

しかし、意識の私はどうでしょうか。

細胞と同じように離れているでしょうか。

 

ここで、古い本でありますが「生命潮流」(ライアル・ワトソン著)の中から、100匹目のサルについて書かれているところを私の言葉に変えて紹介します。

 

📖九州の東海岸から少し沖に出た幸島というところでニホンザルの行動研究をしていた。

1952年のこと。研究のため、砂や砂岩にまみれた生のサツマイモを与えたところ、上手く対処できるサルはいなかった。(そのまま食べるとまずい)

 

ところが、18ヶ月のメスであるイモ(後から名付けられた)という天才とも言えるサルが、サツマイモを水流まで運んで行って食前に洗うことを思いついた。

 

若いイモは母親にこれを伝えたし、遊び仲間にも伝えた。

1958年までには若いサル全員、汚れた食物を洗う習慣を身につけた。

5歳以上の成熟したサルでそうしていたのは子供たちから直接に真似しておぼえたものに限られていた。

 

異常が起こったのはそのときである。

その年の秋までに幸島のサルのうち数は不明だが何匹か、あるいは何十匹かが、海でサツマイモを洗うようになっていた。

 

なぜ海で洗うようになったかと言うと、イモがさらに発見を重ねて、塩水で洗うと食物がきれいになるどころかおもしろい新しい味がすることを知ったからだ。

 

便宜上、サツマイモを海水で洗うサルの数が99匹だったとし、時は火曜日の午前11時であったとする。

いつものように仲間にもう1匹のサルが加わった。

 

この100匹目のサルの新たな参入により、何らかの閾値を超え、一種の臨海質量を通過したらしい。

というのも、その日の夕方になるとコロニーのほぼ全員が同じことをするようになっていた。

 

そればかりか、その習性は自然障壁さえも飛び越して、他の島々のコロニーや九州の高崎山にいた群れの間にも自然発生するようになった。

 

著者はこう述べている。

「多数のミーム(文化の中で人から人へと広がっていく行動やアイデア)や思想、流行が文化を席捲した方式もこれで説明がつくかもしれない。あることを真実だと思う人数が一定数に達すると、それは万人にとって真実となる、といった現象である。」📖

 

幸島から離れた場所で、幸島で起きたニホンザルの新たな行為と同じ現象が始まっているということは、サル同士の目には見えない意識の繋がりがあるように思いました。

 

この本を読んだ当時はとても不思議でしたが、フォーカシングを続けてきた今の私の実感として、自分と他人の意識の繋がりをそれほど不思議に感じなくなりました。

 

細胞の私は他人と別個に存在していますが、意識の私は他の人の意識と繋がっているかもしれないと思いました。そうであるならば、「自分自身」の領域がどこからどこまでなのか、は明確に分けられないのかもしれないと思いました。

または意識の「別れている領域」と「繋がっている領域」がある、と言った方がしっくりくるかもしれません。

自分と他人の間の境界線

自分自身がどこからどこまでなのか、これには解明されていない謎がたくさんあると思います。

しかし、繋がっているからといって、他人と自分との間に全く境界線がなくなってしまったら人はどうなるでしょう。

 

苦しい人を見た時に同じだけ自分も苦しくなり、苦しさを軽減したくなる一心から、相手の為に頑張ってしまい、何でも施そうとしてしまうかもしれません。

自分がうまくいかないとき、周囲に自分の課題を転嫁したくなるかもしれません。

 

「この子が学校へ行けなくなってしまったのは私の育て方に原因があったのかもしれない。」と自責的になってしまう母親、

 

「私が社会に適応できなかったのは親の育て方のせいだ。絶望的だ。」と親を責めながら、鬱状態におちいる子供、

 

この苦しみに寄り添っていくうちに、見えてくるものは互いが互いに依存的になっている側面です。

「私のせいで・・・」や「あの人のせいで・・・」と感じている間中、その依存から引き起こされる苦しさは続いていきます。

 

この苦しみから解放できる方法はあるのでしょうか。

 

そんなことを考えていた時、一冊の本が大変に参考になりました。

「繊細さは、これからの時代の強さです」という本で、アニータ・ムアジャーニ氏が書き表した著書です。

 

アニータ・ムアジャーニ氏は、私が最初にお世話になったカウンセラーさんから紹介された本の著者です。

アニータはシンガポールでインドの両親の元生まれ、2歳で香港に移ります。2002年4月に癌の宣告を受けるまで企業で働いていましたが、2006年の初めに起こった臨死体験が人生を大きく変えます。

 

その本の中に、「イエスではなく、ノーと言う」という章があります。

読み進めていったときに、依存関係が形成されていく過程に何があるのかがわかってきました。

 

これは「エンパス」ーーーいわゆる共感力の高い人に向けてのメッセージが込められている著書であることをまずお伝えしておきます。

 

・エンパスの人は、他人の感情を感じるので、他人の問題を軽減したくなる。

・エンパスの人は、他人を失望させたり、彼らの期待を裏切ったりしたときに罪悪感を持つ。

・エンパスの人は、他人を失望させることの恐れから、他人のために自分をごまかし続けるようになる。

 

アニータ自身がエンパスゆえに、「ノー」と言うことができずにいた半生があるため、これらのことを理解しつつも、次のような指摘をしています。

 

・他人が変わるのを待っていたり変わってほしいと望んだりするのはやめましょう。もし他人が何も変わらない場合、あなたがドアマット状態(人にいいようにされること・他人のなすがままになること)でいる限り、その関係は持続する。

 

あなたが機能不全の場合、あるいは共依存の関係にいるなら、自分が良い気分になる前にみんなを良い気分にさせたいと言うニーズは、さらに大きな問題になるでしょう。

 

その指摘の上で、もしも今、誰かのせいで自分がひどく困っている、怒っている、疲れている・・・としたら、次のような自問をしてみてください、と提案しています。

 

✒️「私が友人や同僚、上司やパートナーのためにこれらのことをしているのは、彼らを愛しているので(あるいは彼らを好きで尊敬しているので)心から助けたいと思っており、彼らが本当に私の助けを必要としているからだろうか?

それとも、自分がよい人になるためにすべきことだと感じており、彼らに非難されたり、後で自分が罪悪感を感じたくないからだろうか?」

あなたの答えがもし後者なら、あなたは相手に対して誠実ではないということです。

友人やパートナーがあなたのためにしてくれたことすべてが、これと同じ理由からだったと想像してみてください。🖊️

 

 

さてここからが重要なところです。

ノーと言うことの大切さを理解できたら、その結果として生じるかもしれない罪悪感への対処法を学ぶ必要があるでしょう。

 

アニータはこの対処法を紹介してくれています。

 

✒️1、気づきと受け入れ。

共感力があることの影の部分(恐れ・間違った罪悪感・自己否定)に気づき、それと親しくなること。罪悪感を抱いたり、敏感すぎたり、喜ばせたいと思ったりする自分自身を非難するのはやめましょう。そうではなく、あなたが持つ特別な才能の裏面として、これらの特質を受け入れようとしてください。

 

2、より良い選択肢を選ぶようにしてください。

 

3、最初の二つを実践してもまだ罪悪感が残っているようなら、それを観察してください。

身体の中でどんな感じがするか、どこでそれを感じているかに気づいてください。

 

4、あなたがノーと言いたい時に使えるような柔らかい言葉を見つけましょう。

 

5、受け取ることを学びましょう!

あなたがノーと言うべき時にノーと言って、自分が信じることのために立ち上がり、自分自身への優しさを受け取っているのを目にしてください。誰かを失望させないために、自分を苦境に立たせる必要もありません。

 

6、日記をつけましょう。

 

7、このことに取り組んでいる間、ずっと自分を愛していてください。

決して自分自身を叩きのめしたりしないでください。

 

あなたはすでに強い人ですが、自分自身を非常に厳しく批判したり、間違った罪悪感に流されたりしなければ、もっと強くなれるでしょう。🖊️

 

このアドバイスが大変参考になりました。

 

冒頭に述べた、カウンセリングルームにくる人のほとんどが非常に人間的に素晴らしく、共感力が高い人ばかりです。

しかしそれ故に、感じなくても済んだはずの罪悪感、おそれ、怒り、疲れ・・・も、その共感力に比例して人一倍強くなってしまいます。

 

そこで私はアニータのアドバイスを参考にして、自分と相手との間に境界線を作るワークを順序立ててゆっくり進めていきました。

 

私が特に参考にしたのは1の気づきと受け入れです。

 

共感力があることの影の部分(恐れ・間違った罪悪感・自己否定)に気づき、それと親しくなることーーーを丁寧にやる必要を痛感しています。

 

多くの共感力のある人は、影の部分にとらわれすぎてしまい、その結果、自分の素晴らしい本質の光を失ってしまうのです。

共感力があること、繊細なことは、素晴らしい本質であることを自分で受け入れていく必要があります。

その第一歩として影の部分を受け入れることがどうしても必要になると思います。

なぜなら、光と影は常に一緒にいるものだからです。

 

また重要なポイントとして、「ノー」と言えるほど、自分自身を愛し尊重することができているのか、そこを一緒に確認していきました。

自立へのプロセス

さて、ここまで展開してきたものを簡単にまとめますと、

 

1、自分の中から湧いてくる感情を大事にしていくことで、他の誰とも違う真の自分自身に至れるのではないか。

2、自分の意識にフォーカスしたとき、自分と他人は離れている領域と繋がっている領域があるのではないか。

3、自分と他人に適切な境界線が引けてこそ、自立した生き方に向かっていけるのではないか。

 

となるでしょう。

 

私は実際に、自分の感情を大事にしながら、なおかつ他人とは適切な関係を保ち、しなやかさを持って自立して生きている、そんな人を探していきました。

 

そんな中、私の周囲の中に、そのような自立を成し遂げていった人がいることに気がつきました。

ここから、彼女の体験を書いていきます。

 

ーーーAさん(40歳 会社員 2人の子供を持つシングルマザー)の体験ーーー

 

彼女は、学生時代からお付き合いしていた仲の良い先輩と結婚しました。

可愛いお子さんにも恵まれ、自分の好きな仕事にも就けて、とても幸せそうに見えました。

 

ところがパートナーとの間に、子育てや生き方などに対しての価値観の違いを知り、イライラや我慢が限界を超え、2016年に離婚することになったのです。(かなりざっくり述べています)

 

彼女が子供を引き取り、シングルマザーとして、仕事と子育てに追われる毎日となりました。

その慌ただしい日々の中、仕事で大きなプロジェクトを任され、心も体もいっぱいいっぱいになっていきました。

 

ある日、とうとう起き上がることができなくなり仕事を休みました。

次の日も次の日も良くなる兆しがなく心療内科へ。

うつ病と診断され、長期休暇を取らざるを得なくなりました。

 

子供を学校に送り出した後、一人になってから彼女はズドーンと落ち込みます。

心療内科の先生には、「心の奥にあるもの、閉じ込められてきた思いとしっかり向き合うように」とアドバイスをされ、とにかく自分の中にある感情と向き合っていきました。

 

自分の感情の中でじっとしていると、「さびしい・・・。」という思いが沸き起こってきます。

時には、持ちきれないほどの重さとなって彼女を飲み込んできます。

彼女は毎日涙を流して暮らしていました。

 

ゴールデンウィークやお盆休みや年末年始といった、世の中の人たちが家族やパートナーと幸せな時間を送るような時期は最も彼女を苦しめました。

「自分だけどうして・・・?」という孤独感と、子供にさびしい思いをさせることが、「辛い」を超えて「怖さ」となって彼女を襲ってくるのです。

 

それでも彼女はどこかに出口を求めてあくせくすることは選択せず、ただじっとさびしさの中にいたのです。

 

そして向き合っている日々の中、このさびしさは、子供の頃からあったことに気づいたと言います。

 

彼女の母親は、義理の母親とご主人にいつも気を使っていました。

その姿がとても可哀想で、お母さんに甘えたり迷惑をかけたりしないように頑張ってきたのです。

それほど彼女はお母さんが大好きで、お風呂に一緒に入った時、お母さんのお尻にキスをした思い出を語ってくれたことがありました。

 

しかしお母さんがいつも義理の母やご主人に気を遣っていた分、自分を充分見てもらえなかった、感情を出せずに我慢してきたさびしさが、ずっと心の奥底にあったことに気づいたのです。

 

そこにも向き合っていこうとして、実家の母親に会いにいくと、思いっきり自分の感情を出していきました。

そのことで後から落ち込みつつも、自分を許すように声掛けをしていきました。

 

休暇を取っていた間中、彼女がしていたことはたった一つ、自分と向き合うことだけでした。

 

そして休暇を終え、職場復帰をしてからまた忙しくなりましたが、自分の要望を上司にはっきりと言えるようになり、自分に合った部署への異動がかなったり、子供とは一日の楽しかったことや嫌だったことなど、何でも話し合えるようになったりして精神的に楽になっていきました。

 

2023年のある日、彼女はふとした時に気づいたことがありました。

それは、自分の中にあった「さびしさ」がどこを探してもどこにも見あたらない!ということでした。

8年間かかりましたが、完全に消せたのです。

 

それどころか、実家のお母さんがいつもいつも自分の味方になって不器用ながらにも支え続けてきてくれたことに感謝がじわーっと湧いてきたそうです。

 

また、子供が進学することで大きな出費があることがわかり、離婚した元のパートナーに応援を依頼するため連絡をしました。

長い間、彼に対して心が開けず、自分が何かをお願いするなんて到底できないことのようでした。

勇気を出して連絡しお願いしたところ、進学に必要な資金の半分以上を応援すると約束してくれただけでなく、「相談してくれてありがとう。」と感謝されたことで、彼女も嬉しい気持ちになれたそうです。

 

「私はいい人と結婚して、幸せな離婚をした」と彼女は言いました。

自分と徹して向き合ってきた彼女でなければそこに至れなかったと、私は心から思ったのです。

過去の出来事は変えられなくても、過去の意味を変えられた彼女の今・この瞬間に立ち会えたのです。

自分自身の感情と徹して向き合えば、必ず精神的自立への道を歩いていけることを彼女は証明しました。

 

さて、自立へのプロセスについてもう少し踏み込んでいきたいと思います。

このプロセスの中で難しい障害は、今まで親しくしていた人や依存関係にあった人と距離を置く過程に起こるのではないでしょうか。

 

例えば、人間関係に疲れてしまったという悩みが起き、いったん立ち止まって自分を振り返ったとします。

そして、「よし!今までは他人を軸に生きていた、だが今日から自分を軸にする生き方に変えていこう!」と決意したとします。

 

「私はどんな風に本当は生きていきたいの?」

「ありのままの自分って一体なに?」

このような自分への問いを発して、自分の心に沸き起こるものを大事にしながら、その声に導かれるように生きようとしたら、とてもスッキリして元気が湧いてきたとします。

 

しばらくはその状態は続くと思いますが、ふと周りを見渡した時、友達がいなくなってしまったり、集団の中での居心地が悪くなってしまったりして、急にひとりぼっちを感じる瞬間が訪れるのではないでしょうか。

 

また、周囲も、「あの人はいつも一人でいる。変わっている人だよね。」と思うのかもしれません。

このような眼差しを向ける傾向は、世界の中において日本人の特徴だと思います。

 

日本では稲作を村でやり、収穫した穀物を分配して、飢えを凌いできた背景から、村文化(みんなで協力する、一人だけわがままを通していはいけない等)が根付いてしまったせいなのかもしれませんし、その他にも理由はあるでしょう。

 

もし日本社会全体が、ひとりでいることを肯定的に受け止め認め合える社会だとしたら、これほど心を病む人や不登校の子どもや引きこもりの若者が増えたでしょうか。

この問題については、いつか掘り下げて考察してみたいと思います。

 

さて、本題に戻ります。

 

一人になってしまい、寂しくなったり不安になったりすると、そのことに耐え難くなり、また自分を少し抑え気味にして、他人や周囲に合わせて気を使って人の輪の中に入ろうとします。

気がついたら、また人間関係に疲れてしまっていた・・・こういうことは非常に起こりやすいと思います。

 

実は、ひとりぼっちを体験しているそのとき、精神的自立が試されている重要な分かれ道があると思うのです。

 

どうしたらこの時に、自立への道に、軌道に、入ることができるのでしょうか?

協調を大切にする日本の文化の中にあっても、自分は自分らしく独立した生き方をしながら、大勢の人々から慕われ、平和や幸福の文化を広げてきたような人物はいたでしょうか。

「代表的日本人」を読んで

そんな問いの答えや、ヒントを与えてくれるような人物を探している時、以前読んだ新聞の記事を思い出したのです。内村鑑三著の「代表的日本人」という本の書評です。それを読んでピンときました。

 

日本人が、自分の国の中から「代表」を探すとしたら、どうしても偏った見方や狭い視野からくる独りよがりが漏れがちです。

 

しかし、この本は少し違います。

 

この本の表紙を見ると、「内村鑑三著」の下に「鈴木範久訳」とあります。

 

その理由はこうです。

 

内村鑑三は、英語で「代表的日本人」を書きました。

 

「我が国民の持つ長所ーーー私どもにあるとされながちな無批判な忠誠心や血なまぐさい愛国心とは別のものーーーを外の世界に知らせる一助となる」こと、彼はそれを願って英語で書いたと言っています。

 

要するに、日本人のことを、「忠誠心や愛国心が強いが、反面、独立心がない人種」と思い込む諸外国の人に、こんな素晴らしいい日本人がいます。と伝えているのです。

 

その後、日本語に翻訳され出版された著書を、今私が手に取って読んでいるわけです。

 

内村鑑三が代表的日本人として挙げた5人とは、

 

・西郷隆盛

・上杉鷹山

・二宮尊徳

・中江藤樹

・日蓮上人

 

です。

 

丁寧にゆっくり5人の生涯と、著者の感じ方を味わいながら読んでいきました。

あまりにも感動した私は、時々目を閉じて、自分の中から湧いていくるそれぞれの人物の思いを想像しては涙を流していました。

 

どこからどう見ても、疑うことなく、この5人は「自分自身」に生き抜いた人物です。

 

「代表的日本人」というタイトルでなかったら、「日本に生まれた世界市民」でもいいのではないかと思うほど、世界に誇る、人類に誇る「何か」を持っていました。

 

実際、1961年、43歳でアメリカの大統領になったJ・F・ケネディが就任されたとき、日本の新聞記者が、「日本で最も尊敬する政治家はだれですか?」と質問した際、大統領は「上杉鷹山だ」と答えています。

 

私はこの本を読み終えて、じわっと湧いてくる感動の余韻までもが抜けたあと、この5人に共通している生き方を私なりに抽出しようと試みました。

 

1.自分自身に正直に生きている。

2. 一冊の拠り所とする本、もしくは人生の師を持っている。

3.他人の言動や評価を生き方の基準においていない。「自己」と「法」に基準がある。

4.徹して学び、徹して行動している。

5. 困っている者や弱き者を深く慈しんでいる。

6.宗教的な人間性である。

 

6の宗教的というのは、特定の宗教を指しているのではなく、自分の力の及ばない限界を知っており、目に見えないものに最後は委ねる潔さと謙虚さ、宇宙の法則を信じている生き方をしているということです。

 

内村鑑三はクリスチャンでありながら、日蓮上人の人物評のところには「日蓮を非難する現代のキリスト教徒に、自分の聖書ががほこりにまみれていないかどうか、調べてもらいましょう。」と言っており、日蓮を「仏義を日本の宗教とした」と賛辞を送っています。そこからもわかるように、内村鑑三は、宗教の教義がどうのこうのではなく、人間としての生き方をただただありのままに見ていることがうかがえます。

 

そして、この本を手掛かりに、たとえひとりぼっちを体験して不安が襲ってきても、以前の生き方に戻ってしまう前に、こんなことをしていけば、真の自立への軌道に入っていけるのではないか、を考察しました。

 

まず、自立したいと思った時、自分の軸を強くしていく必要性を感じます。

 

今まで「感情」という部分にフォーカスして展開してきましたが、理性が不要だと思いません。

むしろ感情に向き合えば向き合うほど、理性を磨きたくなってきます。

 

なぜなら現実社会にあって、感情が行きたい方向に行かせていく力を身につけたくなり、この感情と現実社会をつなげていく役割が理性や知恵や行動にあると思うからです。

 

代表的日本人の5人は、最初から人々を自分の信じる道へと導いておらず、「どうしたらこの自分自身の中から沸き起こってくる悩み(民の安穏)を解決させることが可能か」徹底的に勉強して「これが私の探し求めていた真理だ!」というところに辿り着いています。

揺るがない軸を持ってから、この真理をどう展開していけばいいのかという人生設計を立てて、大胆に行動を起こしていました。軸を作っていくために真理を獲得する学びは絶対に必要なのではないでしょうか。

この5人は、理性が感情を抑圧しておらず、感情と理性が共に巨大化していき、気がついたときには、どんな権力者でさえ、その軸を曲げることも、へし折ることもできなくなっています。

もっと言えば、理性を巨大化させる大感情が常に心の中ではうごめいているのです。

 

もう一点共通していることとして、自分の軸を「人」ではなく、「法」や「天」に合わせています。

たとえば西郷隆盛については、このように書いています。

 

✒️「天」と、その法と、その機会とを信じた西郷は、また自己自身を信じる人でありました。「天」を信じることは、常に自分自身を信じることをも意味するからです。🖊️

また、引き寄せの法則の本の中にも、このようなくだりがあります。

 

✒️強い感情を引き起こさない思考には、大きな磁力はない。

言い換えれば、あなたの思考のすべてには潜在的な創造力というか可能性を引き寄せる磁力があるが、強い感情と組み合わさった思考が一番強力だ🖊️

 

強い感情と組み合わさった思考の力が、周囲から自然と大事なものを引き寄せていく磁力を持つと言っています。

私も同感です。

 

代表的日本人の中の中江藤樹は、一見控えめで慎み深い人柄です。しかし次々と大人物を引き寄せていきます。

著書の中にこんなくだりがあります。

 

✒️藤樹の外見の貧しさと簡素さとは、その内面の豊かさ、多様さと比較すると、あまりにも不均衡であります。

藤樹の内には、自分を絶対君主とする一大王国がありました。

 

藤樹の外面のおだやかさは、内面的充足の自然の反映でした。

藤樹は、天使にひとしい人物に称されるように「九部の霊とわずか一部の肉からなる」と言ってよいでしょう。🖊️

 

大感情と大理性の人物とは、このような魅力的な霊性を自然のうちに備えるのものかもしれません。

 

もう一つ、自分自身に生きる軌道に乗る一つとして、「自己完結体験」を勧めたいと思います。

 

代表的日本人の中の二宮尊徳は、16歳で両親を失い、伯父にあたる人に育てられます。

昼間、伯父の仕事を手伝い、夜は大好きな勉強をこっそりしていましたが、伯父にみつかってしまいます。

 

「無駄な勉強に費やす灯油はない」(灯油で灯りを得ていた)と厳しく言われ、勉強はできなくなります。

 

ある日、誰も目に止めない沼地を田んぼにすることを考え、農家の人が捨てた稲の苗を植え大事に育てます。

するとそれは立派な稲穂になり、米を収穫することができたのです。

 

その結果、わずかではありますが収入を手にすることができコツコツ貯め伯父の元から離れ、米作りで自立していきます。

 

私がここで感じたことは、収入を得たことよりも、最初から最後まで自分の力で成し遂げた自己完結体験がその後の尊徳の人生を変えることになったということです。

 

自分自身に生きていくということは、自分の考えや行動に自信を身につけていくことが必要だと思います。

その礎の一つとして、「自己完結体験」の積み上げはどうでしょうか。

最初はどんな小さなことでもいいと思います。

 

相談者のお一人と、子どもの育て方について話が及んだとき、そのことを提案してみました。

すると彼女は4年生の娘さんにお味噌汁を最初から最後まで作る体験をさせたい、と言っていました。

私はとてもいいアイディアだと思いました。

 

途中から途中までを手伝う体験より、最初から最後まで自分の力だけで完成させることは相当自信がつくと思うからです。大人も同じだと思います。私も一人でテントを張る事ができるようになった時、災害などで非日常に放り出された場面に対する自信がつきました。

この経験そのものが役にたたなくても、自助への自信が前より強くなったと思います。

自分自身に目覚めるフォーカシング的生き方

最初に引用したように、諸富義彦氏は、著書「孤独であるためのレッスン」の、「フォーカシング」の章で、

 

✒️さまざまな心の部分、そのどの声をも、いずれも固有の大切な価値を持つものとして認め、そこから新たな“第三の声”が聞こえてくるのを待っている。🖊️と述べています。

 

例えば、「私は自分軸で生きていこうと決めたから、本当はいつも自分を我慢させてきたあの集まりにはもう行かない。」と決めたとします。

 

その時はスッキリしたような感覚を得られると思いますが、後から、友人たちが自分のことを心配していたり、「最近、○○さん、おかしいよね?」などど言っていた周囲の声が耳から入ってきたりしたとします。

 

「やっぱり友達がいなくなると寂しいし、変わった人だと思われるのは嫌だから、次は行ったほうがいいかな。」などと思うとします。

 

そんな時心の中に湧き起こってくる感情を丁寧に聴いていくと、

 

「ノー、と言える自分になって、ありのままの自分で生きていきたい。」VS「友だちが去っていったらどうしよう。淋しいし、変な人に見られるのは嫌だ。」

 

また他にも何か心の中から湧いてくるかもしれません。

 

アニータは、光の部分と影の部分のどちらとも親しくなることを勧めています。

 

すぐ「行く」か「行かないか」を決断せずに、しばらく「行きたくない」と言っている声とも、「行くべきだよ」と言っていくる声とも親しくなり、そばにいてあげるような感じで味わってみます。

 

その時、否定も批判もジャッジもしません。ただただ、あるがままの心に寄り添っていきます。

 

そして、向こうからやってくる「声」を待っていきます。

 

するとぼんやり曖昧な感覚で、言葉になる前の「色」だったり「絵」だったり「イメージ」だったり「音」のようなものが現れてきます。それは次第に一つのかたまりとなり言葉となって現れてきます。これこそが第三の声と言えるものかもしれません。

 

冒頭に述べた、違う方向に向いている感情と思考の間で苦しんだ時は、どちらかを選択するという道に縛られるよりも、フォーカシングをして、この第三の選択へ心を開いて耳を澄ましていくことが自分の葛藤を乗り越え、解き放していくことに通じていくかもしれません。

 

私自身、フォーカシングを通して、自分自身に生きることは難しいものではないということがわかってきました。

むしろ、フォーカシングこそが、自分自身に生きる軌道に入るには易しくて自然なやり方だと痛感しています。

 

このフォーカシング的生き方こそが、宇宙でたった一つの自分自身に生き抜くことも、他人や環境と調和をしながらしなやかに生きることも、全て可能にしていく新しい生き方の一つではないでしょうか。

 

この生き方が、1人から2人、2人から3人へと伝わり、幸島の100匹目のサル現象のように広がっていくこと、そして真の自己に目覚め充実した人生を歩む、そんな人が多くなっていくことを願って、提言を終えたいと思います。

 

長文をお読みいただきありがとうございました。

〈参考文献〉

  • 「孤独であるためのレッスン」 諸富祥彦 著

  • 「トランスパーソナル心理学」 諸富祥彦 著

  • 「生命潮流」 ライアル・ワトソン 著

  • 「引き寄せの法則」 エスター・ヒックス/ジェリー・ヒックス 著  吉田利子 訳

  • 「繊細さは、これからの時代の強さです」 アニータ・ムアジャーニ 著 奥野節子 訳

  • 「代表的日本人」 内村鑑三 著  鈴木範久 訳

心理カウンセラーが社会に発信する幸福提言

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